■インターコンチネンタルカップ日本開催の謎 1981年2月11日の正午、イスラエル人の主審、アブラハム・クラインのホイッスルが国立競技場に鳴り響き、トヨタカップの歴史が幕を開けた。ヨーロッパ代表は、名将ブライアン・クラフに率いられ、トレバー・フランシス、ピーター・シルトンらイングランド代表選手を多数擁するノッティンガム・フォレスト。対する南米代表は、36歳の若き指揮官、ファン・マルチン・ムヒカの手腕によって古豪復活を果たし、ワルデマール・ビクトリーノ(この大会のMVP)、アルセニオ・ルサルドなど、ウルグアイ代表メンバーをスタメンに7人揃えたナシオナル・モンテビデオである。 国立の芝が茶色い当時の映像を眺めながら、あらためて気付かされるのが、24年間という時の重みである。20世紀から21世紀へ。昭和から平成へ。これだけ長きに渡って大会が継続することを、この時、スタンドを埋め尽くしていた6万