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ブックマーク / monsterspace.hateblo.jp (5)

  • 永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    元亀元年(1570)に行われた織田信長の朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、いわゆる「信長包囲網」との戦いに突入した、この契機としての位置付けが大きい。さらには、朝倉と浅井の挟み撃ちにされた信長が命からがら逃げだし、木下秀吉が殿を務めたというエピソードはもはや「神話」となっているきらいさえある。 では、なぜ織田信長は朝倉攻めを行ったのか?通説では、織田信長は傀儡将軍足利義昭を利用して、諸大名に上洛を呼びかけた。しかし、義景はこの上洛の質が義昭ではなく信長への臣従にあると考えたため、上洛要請を黙殺した。信長はこれをいい口実として、義景を義昭への反逆者に認定、討伐することにしたというものである。さらには、そもそも足利義昭は傀儡と

    永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    k-holy
    k-holy 2019/08/21
    状況分析に色んな気付きがあって良い。赤松贔屓的に欲を言えば赤松宗家と小寺にも言及して欲しいところですが。しかし、木林源五父子って誰wってなりますね。続きにも期待。
  • 三好右衛門大夫政勝と三好下野守政生は同一人物か? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好政長(宗三)の息子・政勝と三好三人衆の一人・三好宗渭が同一人物であることは今やWikipediaにすら載っている。この事実が指摘されたのは平成22年(2010)と9年前にすぎない(『戦国期三好政権の研究』補論二「三好一族の人名比定について」)*1が、すでに巷間には知名度を確保しているとも言えるだろう。そういうわけでもはや常識とのほほんとしていたのだが、最近「当にそうなのか?」という問い合わせを頂いた。私個人としては政勝と宗渭が同一人物であることは間違いないと思っているが、考えてみれば自分で確かめて論理を組み立てたわけではないので、良い機会であるし調べてみることにした。 まず、わかりやすく決め手になるのが花押(署名の下に書く属人的紋章)で、天野忠幸氏の指摘もこれを根拠にしておられる。実際、注で何を見て花押を確認すればいいのかまで明記されていた。いやあ有難い話である。 大仙院文書 (史料

    三好右衛門大夫政勝と三好下野守政生は同一人物か? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    k-holy
    k-holy 2019/08/05
    池田勝正研究所さんへの回答でしょうか。たぶん先方は政勝=為三を前提とされているので、そこが噛み合ってない感じ?一連の記事 https://ike-katsu.blogspot.com/2016/12/blog-post.html
  • 「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    さて、先ごろ『フロイス日史』に見る永禄の変への道 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』という記事を製作し、永禄の変への経過について何があったのか、考察を加えた(この記事の前提ともなるので、是非ともお読みいただきたい)。その時は『フロイス日史』を用いたが、『フロイス日史』は編纂史料であり、フロイスが後付けで編集した側面もある(だからこそ、変後の情報操作が含まれているのではないかという推測も行った)。ところが、その後になって『十六・七世紀イエズス会日報告集〈第3期‐第2巻〉』に「1565年6月19日付フロイス書簡」という文献があるのに気付いた。明治6年以前の和暦と西暦では日付がずれるのでわかりにくいが、永禄の変が発生した永禄8年5月19日は西暦では1565年6月17日にあたる。つまり、この書簡は変の2日後に書かれたもので(実際には3日後以降の動静も記されている)、その情

    「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
  • なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好康長はどちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。なぜなら、康長は織田信長の重臣となっており、近年は能寺の変の原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。来年放映予定の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、主人公が明智光秀であるからには、康長も登場することは間違いなく、ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。…ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長は織田信長の家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に信長の敵であった。康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。しかも織田家臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。これこそ

    なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    k-holy
    k-holy 2019/02/05
    織田政権での三好康長はかつての三人衆政権において篠原長房が果たしていた役割の一端を引き継いだと言えるのかも。康長が長房の躍進と破滅をどう見ていたのかが気になる。
  • 三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好長逸は『日人名大辞典』によれば、以下のような説明がなされている。 三好長逸 みよし-ながゆき ?-? 戦国時代の武将。 三好之長(ゆきなが)の孫。三好三人衆のひとり。松永久秀と協力し,宗家の三好義継(よしつぐ)を後見した。のち久秀・義継の同盟軍と対立,奈良を中心に交戦をくりかえす。織田信長の畿内制圧で阿波(あわ)(徳島県)にのがれ,しばしば反攻したが,天正(てんしょう)元年(1573)の敗走以後は不明。別名に長縁(ながより)。 三好長逸を数行で説明しようと思ったら、おそらくこれ以上にもこれ以下にもならないだろう。しかし、三好長逸は永禄末年から天正に至るまで日史の主役の一人を演じていた。これを考え合わせると長逸の解説を数行で済ませてしまうこと自体が不当である。にも関わらず、歴史関係の図書でも長逸は名前すら出て来ることがあまりない。そもそも三好氏自体が日史の中で画期を示したのに対して

    三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
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