ブックマーク / rekishikomugae.net (107)

  • 『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』、なんだかんだで700年 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    島津(しまづ)氏は12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得て、その歴史がはじまる。日向国・大隅国・薩摩国にまたがる島津荘(しまづのしょう)を領したことから「島津(しまづ)」を名乗りとした。また、三ヶ国の守護職にも任じられる。 初代の島津忠久(惟宗忠久)から29代当主の島津忠義(ただよし)まで、じつに約700年間にわたって南九州を治めた。 こんなが出た。読んでみた。 『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』 著/新名一仁・徳永和喜 島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略 (PHP新書) 作者:新名 一仁,徳永 和喜 PHP研究所 Amazon 700年の歴史が「これ一冊でわかる」 専門家による「島津氏」通史の決定版 と、帯にはある。 書は、新名一仁(にいなかずひと)氏と徳永和喜(とくながかずよし)の共著による。物凄く分厚いわけではないけれど、ここに700

    『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』、なんだかんだで700年 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/10/03
  • 花尾神社【後編】 丹後局の墓/丹後局御荼毘所/丹後局御腰掛石 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    花尾神社(はなおじんじゃ)の記事の続きである。旧称は花尾権現社。鹿児島市花尾町に鎮座し、源頼朝・丹後局(たんごのつぼね)・永金(ようきん)を祭る。丹後局は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の母とされる人物だ。また、島津忠久は源頼朝の庶子とも伝わる。 花尾神社の詳細は【前編】にて。 rekishikomugae.net このあたりは、古くは薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(あつち)と呼ばれるところ。丹後局は晩年を厚地で暮らし、この地で亡くなったとされる。花尾神社の境内には「丹後局の墓」とされるものもある。 丹後局の墓 丹後局荼毘所跡 丹後局御腰掛石 丹後局の墓 参道の途中で登っていけるところがある。こちらに丹後局の墓がある。「子宝・安産」「丹後局の御墓」「おこけ石」と書かれている。ここを上へ。 参道脇を登る 登っていくと古石塔群がある。14世紀の造立と思われるものも。これらは平等王院と関

    花尾神社【後編】 丹後局の墓/丹後局御荼毘所/丹後局御腰掛石 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/09/14
  • 花尾神社【前編】 源頼朝と丹後局を祭る、島津家ゆかりの地 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    花尾神社(はなおじんじゃ)は、鹿児島市花尾町に鎮座する。旧称は「花尾権現社」「花尾大権現社」。この地は、薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(厚智、あつち)というところであった。 御祭神は源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)。従祀神に永金(ようきん)、相殿祭神に清和天皇。建保6年(1218年)に島津忠久(しまづただひさ)が御堂を建て、源頼朝の尊像を安置したのが始まりとされる。 島津忠久は島津氏の初代である。丹後局はその母とされる。そして源頼朝の御落胤という伝承がある。つまり、花尾権現社(花尾神社)の御祭神は島津忠久の両親とされる人物なのである。 島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる 島津忠久の出自について 島津宗家による再興 境内が美しい もともとは熊野権現か? なお、日付は旧暦にて記す。 島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる 「島津忠久は源頼朝の庶長子」というのを、島津家では正式に採用している。『島津

    花尾神社【前編】 源頼朝と丹後局を祭る、島津家ゆかりの地 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/09/06
  • 龍門瀑布(龍門滝)、『三国名勝図会』より - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    龍門滝(りゅうもんのたき/りゅうもんだき)というのが、鹿児島県姶良市加治木にある。大きな滝で、けっこう遠くからも見える。高速道路(九州自動車道)を走っていると、加治木インターチェンジ近くで見ることができる。 昔から名瀑として知られていたようで、『三国名勝図会』でも紹介されている。絵が素晴らしい! 『三国名勝図会』巻之三十七より(国立国会図書館デジタルコレクション) 絵図と同じような角度から、写真を撮ってみるとこんな感じ。丘陵を網掛川が流れていて、この場所で一気に流れ落ちるのである。 龍門滝を見る 『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 滝のすぐ目の前に丘がある。ここからの眺めが良い。駐車場からも遠くはない。ちょっと登るけど、ここまでは気軽に訪れることができる。「龍門滝 高さ46メートル 幅43メートル」とある。 丘の上から 丘の上からは滝と滝壺

    龍門瀑布(龍門滝)、『三国名勝図会』より - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/08/30
  • 鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」、海を渡った19人のサムライ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    「若き薩摩の群像」はJR鹿児島中央駅前の広場にある。 「若き薩摩の群像」 19人の像が並べられている。彼らは何なのかというと、慶応元年(1865年)に薩摩藩がイギリスに派遣した一団だ。「薩摩藩遣英使節団」と呼ばれている。外交使節3名と通訳1名、留学生15名(第一次薩摩藩英国留学生)からなる。留学生は「サツマスチューデント」と呼ばれたりもする。メンバーは次のとおり。 外交使節/新納久脩(にいろひさのぶ)・五代友厚(ごだいともあつ)・寺島宗則(てらしまむねのり) 通訳/堀孝之(ほりたかゆき) 留学生/町田久成(まちだひさすみ)・町田申四郎(しんしろう)・町田清次郎(せいじろう)・畠山義成(はたけやまよしなり)・名越時成(なごやときなり)・村橋久成(むらはしひさなり)・朝倉盛明(あさくらもりあき)・松村淳蔵(まつむらじゅんぞう)・森有礼(もりありのり)・高見弥市(たかみやいち)・東郷愛之進(とう

    鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」、海を渡った19人のサムライ - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/08/22
  • 鹿児島縣護國神社、幕末・維新の薩摩藩の殉難者を祀ったのがはじまり - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    鹿児島縣護國神社は鹿児島市草牟田に鎮座する。護国神社は全国にあり、英霊(国家のために殉難した人の霊)を祀る。鹿児島縣護國神社は鹿児島県出身の英霊が7万7000余柱を御祭神とし、郷土の守り神として崇敬されている。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀 御祭神 参詣する 鹿児島縣護國神社頓宮 御祭神、幕末・維新の殉難者から 日下部伊三次翼命 日下部裕之進信政命 有村次左衛門兼清命 有村雄助兼武命 有馬新七正義命 柴山愛次郎道隆命 田中謙助盛明命 弟子丸竜助方行命 西田直五郎正基命 橋口壮助隷三命 橋口伝蔵兼備命 森山新五左衛門永治命 道島五郎兵衛正邦命 山四郎義徳命 美玉三平親輔命 是枝柳右衛門貞至命 森山新蔵永賀命 児玉雄一郎命 益満休之助行武命 中原猶介尚男命 西郷吉二郎隆廣命 なお、明治5年(1872年)以前の日付については旧暦にて記す。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀

    鹿児島縣護國神社、幕末・維新の薩摩藩の殉難者を祀ったのがはじまり - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/08/13
  • 島津豊久(島津忠豊)の戦績、関ヶ原に散った猛将 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。 串木野城で誕生、父は島津家久 弟と姉と妹と 初陣は島原合戦(沖田畷の戦い) 元服 父の降伏、父の急死 佐土原領主になる 朝鮮転戦 庄内の乱 関ヶ原の戦い 島津義弘と合流 島津の退き口 佐土原を没収される 永吉島津家 なお、日付は旧暦にて記す。 串木野城で誕生、父は島津家久 島津豊久は元亀元年(1570年)6月に誕生。父は島津家久(いえひさ)の長男で、母は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘。幼名は「豊寿丸」。通称は「又七郎」「中務大輔」で、これらは父と同じである。 初名は「島津忠豊(ただとよ)」。じつのところ、「島津豊久」と名乗った時期は短い。また、いつ改名したのかもはっきりしない。「豊久」

    島津豊久(島津忠豊)の戦績、関ヶ原に散った猛将 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/08/09
  • 『南国白くま』(セイカ食品)、鹿児島の夏の定番! - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    夏にべたいもの。それは、かき氷である。酷暑で熱の溜まった体を、内側から冷やしてくれるのだ。 で、よくべるのがコレ。セイカ品株式会社の『南国白くま』だ。鹿児島県ではスーパーなど売っているところは多い。夏の定番である。 パッケージデザインも好き 種類別は「ラクトアイス」。かぎ氷は「氷菓」のものがほとんどなのだが、『南国白くま』はかき氷ながらも乳成分がけっこう含まれている。 ちなみにセイカ品は鹿児島県にあるお菓子メーカー。『ボンタンアメ』や『兵六』も人気商品だ。 「白くま」「しろくま」「白熊」は、鹿児島県でべられている。削り氷に練乳をかけて、そこにフルーツや豆を乗っける。そんな感じのかき氷だ。夏になると、これを出す飲店も多い。そして、カップアイスでもべられるのはうれしい。 フタをあけるとこんな感じ。練乳ベースのかき氷の上にミカン・パイン・小豆が乗る。フルーツの甘酸っぱさとともに、

    『南国白くま』(セイカ食品)、鹿児島の夏の定番! - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/07/09
  • 「姶良」という地名について - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    鹿児島県に「姶良(あいら)」という地名がある。 鹿児島湾の奥のほうには「姶良市」がある。「姶良郡」もある。現在の霧島市の一帯ももとは姶良郡だ。桜島の北側の湾は「姶良カルデラ」と呼ばれていたりもする。「姶良というと、あのあたりだな」と認識している人が多いことだろう。 でもこのあたりは、じつは「姶良」ではないのだ。大隅半島の南のほうの鹿屋市に「大姶良(おおあいら)」「吾平(あいら)」というところがあって、こっちのほうが来の「姶良」なのだ。 大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」 「始羅」と「姶羅」がごっちゃに? 姶良町と吾平町 阿比良比売/吾平津媛 大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」 『続日紀』によると、和銅6年(713年)に大隅国が設置されたとある。日向国から分立させてのもの、大隅国は「肝杯郡(きもつきのこおり)」「囎唹郡(そおのこおり)」「大隅郡(おおすみのこおり)」「姶羅郡(

    「姶良」という地名について - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/06/30
  • 大隅国蒲生の松坂城跡にのぼる、大隅合戦の激戦地 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    16世紀半ばに、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国蒲生(かもう)を攻めた。この一帯での戦いは「大隅合戦」と呼ばれる。その中で激戦地となったのが松坂城(まつざかじょう)である。場所は鹿児島県姶良市蒲生町米丸。 松坂城跡は城域の一部を歩くことができる。荒々しい雰囲気の山城であった。 大隅合戦 切通を抜けて山中へ なお、日付は旧暦にて記す。 大隅合戦 天文23年(1554年)9月、島津貴久は大隅国始羅郡(しらのこおり、鹿児島県姶良市のあたり)の攻略に乗り出す。蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らが、加治木城(かじきじょう、姶良市加治木町反土)を囲んだことをきっかけに島津貴久は鹿児島から出兵する。 島津貴久は岩剣城(いわつるぎじょう、姶良市平松)を囲む。敵方は加治木の囲みを解いて、島津方に向かってきた。島津方はこれを叩き、岩剣城も落とす。 天文24年(1555年)3月に祁

    大隅国蒲生の松坂城跡にのぼる、大隅合戦の激戦地 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/06/14
  • 高牧の田の神、ペロっと舌を出す/鹿児島県姶良市蒲生町久末 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    のどかな山間の集落である。鹿児島県姶良市の蒲生(かもう)に「高牧(たかまき)」というところがある。そこに面白い雰囲気のタノカサァ(田の神)がいた。「高牧の田の神」と呼ばれている。「ベロ出し田の神さぁ」とも呼ばれる。 タノカンサァ(田の神)は鹿児島県のあちこちにある神像である。現存する田の神像の制作年代から推測すると、18世紀以降に島津氏領内で盛んに造られるようになったと思われる。田の守り神、子孫繁栄の神、地域の守り神といった性格ののもので、集落ごとに大事にされている。 タノカンサァ(田の神)の詳細については、こちらの記事にまとめている。 rekishikomugae.net 山間の道を行くと墓地がある。その入口の上のほうに祠が置かれている。その中にタノカンサァ(田の神)は納められている。祠は石とレンガを積んで造られているみたい。たぶん、そこまで古いものではない感じ。 雨と風はしのげるね 中

    高牧の田の神、ペロっと舌を出す/鹿児島県姶良市蒲生町久末 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/29
  • 永田の田の神、顔はどうしたの?/鹿児島市東谷山 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    鹿児島市の南のほうの谷山(たにやま)には、タノカンサァ(田の神)が多い。JR谷山駅の周辺を歩いていると、けっこうな数に出くわすのだ。そのうちの一つを紹介する。 タノカンサァ(田の神)の像は、鹿児島県内に大量にある。18世紀頃から島津氏領内で大量に造られるようになった。田の守り神であり、子孫繁栄の神でもある。 タノカンサァの詳細についてはこちらの記事にて。 rekishikomugae.net 公園の一角に 谷山には「永田川」というけっこう大きな川が流れている。その川沿いに「島ノ森公園」がある。それほど大きくない都市公園だ。その一角にタノカンサァがいる。近くのあぜ道に立っていたものが、区画整理の際にこちらの公園に移されたという。 どこにいるのか、わかるかな? 植え込みのところに 公園から外側を見るような感じ 「永田の田の神」と呼ばれている。このあたりは「永田」という地区である。その姿は地蔵っ

    永田の田の神、顔はどうしたの?/鹿児島市東谷山 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/25
  • 戦国時代の伊集院一族、島津貴久・島津義久の勢力拡大を支える - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    戦国時代の島津氏の配下には、伊集院(いじゅういん)氏が多い。 島津貴久(しまづたかひさ)が分家から覇権をとって薩摩国を平定する。子の島津義久の代になると大隅国・日向国を制圧し、さらに九州全域へと勢力を広げていく。そして、島津氏は豊臣政権下に入り、関ヶ原の戦いのあとも生き残る。 その過程の中で、伊集院氏の存在感は大きい。戦国期の伊集院一族について、まとめてみた。 伊集院氏とは 全盛期から没落へ 伊集院氏の支族 相州家に仕えた伊集院氏 伊集院忠朗 伊集院忠倉 春成久正 春成久辰 飛松久友(富松久友) 伊集院久宣 伊集院忠次(又七郎) 伊集院久道(伊集院久通) 伊集院久治 伊集院久実 伊集院久信(伊集院久春) 伊集院久族 伊集院忠次(彦三郎) 伊集院竹友(肝付竹友) 伊集院三河守久光 大重平六(大重忠修) 伊集院忠棟 大名に取り立てられる 伏見で成敗される 伊集院忠真 庄内の乱 一族の誅殺 伊集

    戦国時代の伊集院一族、島津貴久・島津義久の勢力拡大を支える - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/23
  • 入来浦之名の諏訪神社、山深くに並立鳥居、そこは古代の聖域か? - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    鹿児島県薩摩川内市の入来(いりき)の浦之名(うらのみょう)の諏訪神社を参詣した。鎮座地は山の奥深く。なんとも聖地っぽい雰囲気だった。 諏訪神社は鹿児島県内に多い。明治時代に南方神社(みなかたじんじゃ)と改称したところもある。 鹿児島県内の諏訪神社・南方神社では、並立鳥居がよく見られる。鳥居というのは目立つ存在だ。それが2立っている光景は、なかなかにインパクトがあるのだ。 森の中の並立鳥居 諏訪神社を17世紀に合祀 古代の祭祀の場? 森の中の並立鳥居 Googleマップで検索すると、入来のあたりには諏訪神社がいくつかある。そのうちの浦之名の諏訪神社は藺牟田池の麓にある。 山の中にある。地図には載っていないが、神社までの道もある。ただ、この道は車で入ると、かなりタイヘンなことになりそうだ。狭路であり、隘路であり、悪路である。麓のどこかに車を置いて、歩いていったほうがいい。 「諏方温泉」という

    入来浦之名の諏訪神社、山深くに並立鳥居、そこは古代の聖域か? - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/06
  • 木津志の城野神社、祭られているのは源為朝の奥方と伝わる - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    城野神社(じょうのじんじゃ)は、鹿児島県姶良市木津志に鎮座する。木津志(きづし)というところは、なかなかの山奥である。鎮座地は「隠れ里」という言葉がしっくりくるような雰囲気だ。 城野神社の参道口 御祭神は浄之御前(じょうのごぜん)。源為朝(みなもとのためとも)の奥方だと伝わっている。 城野神社の由緒 島津義弘の腹痛を治す 城野神社をお詣り 大隅国桑原郡の源為朝伝説 もとは違う神様か? 城野神社の由緒 由緒については『木津志百年史』(1966年発行)や『姶良町郷土誌』(1968年発行)に詳しい。こちらの資料を参考にした。 創建年代は不明。浄之御前については源為朝のと伝わるのみで、出自はわからない。「オソノ様」とも呼ばれているという。 もともとは現社地の北にある高嶺岡の山上に鎮座していという。ここの神様は白馬を嫌っていて、山上から見える道を往来する白馬がばたばたと死んでいたことから、御神体を

    木津志の城野神社、祭られているのは源為朝の奥方と伝わる - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/04
  • 【ゲーム】『真田十勇士』(ファミコン)、最善の策は話し合うこと - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    1980年代後半、家庭用ゲームではRPG(ロールプレイングゲーム)が人気ジャンルになっていた。そんな中で、ファミリーコンピュータ(ファミコン)向けに『真田十勇士』なる作品も発売された。 真田幸村(真田信繁)と10人の部下たちが徳川家康の打倒を目指す。シブすぎる設定に、キャラクターの使い分けをはじめとするゲームシステムがよくかみ合っていた。面白いゲームだった。 『真田十勇士』 ファミリーコンピュータ/コトブキシステム(ケムコ)/1988年6月27日発売 真田十勇士 コトブキシステム Amazon ケムコのこと 「真田十勇士」とは 独特のゲームシステムに 真田幸村と十勇士の旅路 ケムコのこと 発売元はコトブキシステム。ゲームブランドの「KEMCO(ケムコ)」のほうが印象に残っている人も多いんじゃないだろうか。 広島県にある会社で、1984年に創業。海外作品の日向け移植をけっこう手掛けていた。

    【ゲーム】『真田十勇士』(ファミコン)、最善の策は話し合うこと - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/02
  • 木津志の田の神/鹿児島県姶良市木津志 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    けっこう大きなタノカンサァ(田の神)だ。高さは台座を含めると117㎝。像だけでも96㎝。幅も60㎝くらいある。 鹿児島県姶良市の山間のほうに木津志(きづし)というところがある。そこで見つけたタノカンサァだ。「木津志の田の神」と呼ばれている。城野神社の鳥居の前のあたりの道の脇で、田んぼを見守っている。 木津志のタノカンサァは、耕地整理記念碑と並んで置かれている。もともとは地域内の別の場所にあったが、農地整理事業でこの場所へ移されたという。 記念碑と並んで 城野神社については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 鹿児島県内には、田の神像があちこちにある。島津氏の領内で18世紀頃から盛んに造られるようになった。田の守り神であり、豊穣の神であり、子孫繁栄の神でもある。 タノカンサァ(田の神)の詳細はこちらの記事にて。 rekishikomugae.net 製造年代は不明だが、

    木津志の田の神/鹿児島県姶良市木津志 - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/05/01
  • 『古事記』は、むかしからある岩波文庫版がいいと思う - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    国内の物事を深く理解するためのヒントが、『古事記』にはたくさん詰まっている。 例えば、神社へお詣りすると、そこには神様が祭られている。「どんな神様なんだろう?」と思う。また、神話が絡んだ史跡であったり、地名であったり、といったものにも出くわす。そのあたりを紐解くための資料として、『古事記』はすごく重宝するのだ。 『古事記』については、たくさんの書籍が出版されているが、岩波文庫のコレがいいなと個人的には思う。初版は1963年。古いではあるけれど。 『古事記』(岩波文庫) 校注/倉野憲司 発行/岩波書店 古事記 (岩波文庫 黄 1-1) 作者:倉野 憲司 岩波書店 Amazon 『古事記』とは? 「ふることふみ」「ふることぶみ」、あるいは「こじき」と読む。音読みの「こじき」が一般的だろうか。ただ、『古事記』が正式名称であるかどうかは、よくわかっていない。序文の中に「古事記」を書名としたこ

    『古事記』は、むかしからある岩波文庫版がいいと思う - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/04/14
  • 牧園町中津川の伊邪那岐神社、もともとは妙見神社だった - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    霧島連山の南麓に中津川(なかつがわ)というところがある。ここを車で通った際に神社を見つけた。なんとなく気になる存在だな……と寄ってみることにした。 伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)という。鎮座地は鹿児島県霧島市牧園町下中津川。かつての大隅国の踊(おどり)のうちである。 道路沿いに立派な鳥居が見える。そこから石段が続いている。 伊邪那岐神社の参道口 もともとは「妙見神社」 「妙見温泉」はこの神社に由来 石段を登って 大関霧島の力石 税所氏の棟札、伊集院氏の棟札 もともとは「妙見神社」 創建年代は不明。御祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)。 じつは、「伊邪那岐神社」という社号は明治時代になってからのものである。それ以前は「妙見神社(みょうけんじんじゃ)」だった。明治時代初めの神仏分離により、仏

    牧園町中津川の伊邪那岐神社、もともとは妙見神社だった - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/04/12
  • 薩摩国分寺跡、薩摩の国府は川内にあった、「万葉の散歩道」には大伴家持も - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    薩摩国の設置は、『続日紀』によると大宝2年(702年)のこととされる。国府が置かれたの薩摩半島西部の川内(せんだい)であった。川内には薩摩国分寺跡がある。国の史跡にも指定。「薩摩国分寺跡史跡公園」として整備されている。場所は鹿児島県薩摩川内市国分寺町。 天平13年(741年)に聖武天皇の詔により、国ごとに国分寺を設置することになった。薩摩国分寺もその一つだ。 また、薩摩国分寺跡のすぐ近くにある「万葉の散歩道」もあわせて紹介する。ここには『万葉集』に収録された歌の碑がちょっとある。また、大伴家持(おおとものやかもち)の像も。大伴家持は薩摩守に任じられ、この地に居た時期がある。 薩摩国分寺跡へ 豊臣秀吉の侵攻で焼失、そして再興 「万葉の散歩道」 薩摩国分寺跡へ 史跡公園には駐車場がない。近くに川内歴史資料館があるので、こちらの駐車場を利用する。 川内歴史資料館 川内資料館には薩摩国分寺の復元

    薩摩国分寺跡、薩摩の国府は川内にあった、「万葉の散歩道」には大伴家持も - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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    k10no3 2024/04/07