中央アジア・ジョージア(グルジア)の国民的詩人、作家のヴァジャ・プシャヴェラ(1861~1915年)の作品集『祈り』(冨山房インターナショナル)が刊行された。翻訳した同国在住の言語学者、児島康宏さん(42)は今秋、一時帰国。「伝統的な暮らし。雄大な自然。土着の世界を描いた深遠な世界にひたってもらえれば」と語った。 東京大学大学院で言語学を専攻し、「コーカサスの国の中で独自の言語や文化を築いたグルジアに興味を抱いた」。

大学入試センター試験の後継である大学入学共通テストの英語が、7業者による民間試験に委託されることは深刻な問題をはらんでいる。東京大は、数十万人の受験生が不利益を被らないよう、出願に民間試験を必須としない方針を決めた。 問題点は数多い。まず、高校の学習指導要領に準拠していない試験を共通テストの代替とすることへの疑念がある。高校の英語教育が民間試験対策に追われ、本来のコミュニケーション能力を目指す教育にならないとの危惧が強い。 受験回数を重ねればスコアが上がるのは当然なので、経済格差や地域格差が受験生を直撃する不条理もある。採点基準や方法が透明ではない民間試験が信頼性や妥当性の面で適しているのかという懸念も強い。
<since 1918> 出版は天下の公器 一国文化の水準と全貌を示す刊行を 鈴木一行現社長の父は創業者・鈴木一平の三男で4代目社長の荘夫。だが、後を継ぐよう言われたことはなく、大学卒業後は現味の素AGFで営業や企画開発を担当。その後、コンピューターのソフトウエア会社に転職し、シンガポールで営業を担当していた。そのシンガポールに父が来て、後を継がないかと言ったのは1992年のこと。1年考えて、入社した。総務部を経て社長に就任したのは2000年だった。 90年代の中ごろ、出版業界ではIT化の進展により、ある変化が起きていた。辞典類の電子化や他社へのコンテンツ提供だ。しかし、複数出版社の相乗りというあり方に対する業界の抵抗は大きかった。そんな中、流れに先行できたのは、一行社長の前職が寄与したようだ。「総務をしながら営業も担当しました。当時、社内ではITのことを理解している者は少なかったので……
<since 1918> 出版は天下の公器 一国文化の水準と全貌を示す刊行を 大修館書店の創業者、鈴木一平は1887(明治20)年、千葉県に生まれた。生家は商家だったが生活は厳しく、10歳で働きに出た。孫の鈴木一行現社長は「海軍の船にボーイとして乗ったり、旅芸人の一座に同行したり、いろんなことをしていたようです」と話す。 修学堂書店に入社し、店主・辻本末吉から仕事を習うが、同店の廃業を機に1918(大正7)年、大修館書店を創業した。社名は修学堂書店の「修」と、辻本が以前勤めていた大倉書店の「大」から取った。最初の出版物は学習参考書「試験によく出る和文英訳正しき訳し方」。23年2月発行の「最も要領を得たる外国地理」をはじめとする地理・歴史のシリーズは、後に戦災で紙型を焼失するまでロングセラーとなった。
神戸地裁に提訴した2組の夫婦 「聞こえる人間も、聞こえない人間も対等です」--。旧優生保護法(1948~96年)に関する一連の国家賠償請求訴訟で初めて、聴覚障害者が「声」を上げた。神戸地裁に提訴した2組の夫婦は記者会見で、半世紀以上にわたり胸に秘めてきた怒りや悲しみを、手話を通じて訴えた。 中絶と不妊の手術を同時に受けさせられた兵庫県明石市の小林喜美子さん(86)は、つえをつく夫宝二(たかじ)さん(86)とともに、会見の壇上に上がった。結婚後ほどなく、喜美子さんの妊娠が分かったが、喜びもつかの間、母から「赤ちゃんが腐っている」などと聞かされ、中絶手術を受けた。夫婦は悲しみの底に突き落とされたが「また子どもをつくろう」と励まし合ってきた。 だが、それから妊娠の兆しはなかった。「子どもができないのはどうして」。疑問が氷解したのは今年。旧法下で望まない手術を受けた障害者の存在を知人から聞き、自身
日本列島に住む人類の起源を、ゲノム(遺伝情報)解析や言語学などの共同研究で解明を目指す新たなプロジェクトを、情報・システム研究機構などの8団体合同の研究チームが始める。考古学など文理融合による「ゲノム歴史学」という新手法で取り組む異例のプロジェクト。日本人がどこから来たのかという謎に迫れるかが期待される。 日本列島には約4万年前に初めて人類(旧石器人)が渡来して以降、ユーラシア大陸などから縄文人や弥生人などが移り住んだとされるが、詳しい時代や起源はわかっていない。また、本州に住む人や北海道のアイヌ民族、南西諸島の人など、地域でDNA型に違いがあることがわかっている。チームでは、日本全体に住む人類を意味する「ヤポネシア人」(ヤポネシアは日本列島の意味)と名付け、ルーツを包括的に調べる。
沖縄・奄美方言の発音表記法を広めている小川晋史准教授=熊本市東区で2018年5月10日午前11時26分、中里顕撮影 沖縄県や鹿児島県の奄美諸島で長く口述で伝えられてきた沖縄・奄美方言の発音表記法と書体(フォント)を、熊本県立大の小川晋史准教授(39)=言語学=が作成した。ひらがなとカタカナ、六つの補助記号を組み合わせて発音が分かるようにしたもので、小川准教授は「地域の文化や言葉に関心を持つ人たちに発音表記法を活用してもらえればうれしい」と話している。 戦前戦後を通し、沖縄の学校では方言を使った子どもに「方言札」をぶら下げる罰を与えるなど標準語励行運動が進められた時期があり、方言の使い手が減っていることで伝承が課題になっている。
台湾北東部・宜蘭(ぎらん)県にある寒渓(かんけい)、澳花(おうか)、東岳(とうがく)、金洋(きんよう)の4村で話されている「ニホンゴ」についての記事を書いた。「日本語」ではない。台湾先住民のタイヤル族、セデック族のそれぞれの固有言語が、日本語と接触することで生まれた新言語「宜蘭クレオール」である。「クレオール」とは、フランス語で「植民地生まれ」のことだ。この異なる言語の融合は、日本による台湾の植民地統治によって引き起こされた。一人の日本人として、心に重苦しさを感じながらの取材だった。 宜蘭クレオールは日本人にとって不思議な言語だ。例えば「暑い。もう歩きたくない」は「キルクス、アルクサン、モウ」。この地域でセデック語を吸収したと推定されるタイヤル語と日本語の語彙(ごい)が混ざり、文法構造やアクセントも日本語とは異なる。タイヤル語を母語とする人も、日本人も、うまく聞き取れない。
樺太(サハリン)のアイヌ墓地から持ち出された地元集落の首長、バフンケ(1855~1919年ごろ、日本名・木村愛吉)の遺骨が、北海道大から遺族へ返還されることが決まった。アイヌ民族の遺骨は全国の大学などに1600体以上保管されているが、身元が分かる遺骨は38体のみで、生前の写真や逸話の残る人の遺骨返還は初めて。【三股智子】 バフンケは樺太の東海岸にあった集落「アイ」の首長を務めた。ロシア語や日本語に堪能で漁業で財を成し、樺太に滞在した言語学者の金田一京助(1882~1971年)の著書「北の人」にも触れられている。ポーランド貴族出身でロシアの政治犯として樺太に流刑されたブロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918年)が寄宿し、バフンケのめいのチュフサンマと結婚した。
115文字の銘文で知られる稲荷山古墳(埼玉県行田市)の国宝「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」が、古墳に埋葬された人物の「墓誌」のような役割を持っていたという説を、奈良文化財研究所(奈良市)の馬場基(はじめ)史料研究室長が示した。銘文の内容と、山上(やまのうえ)古墳(群馬県高崎市)の墓碑「山上碑」の銘文が似ていることに注目した。死者に直結する情報が書かれていることになり、古墳の被葬者論争にも影響を与えそうだ。
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