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歴史と日本に関するkahn77のブックマーク (11)

  • TwitLonger — When you talk too much for Twitter

    【TLからコピペ】「玉音放送を現代語訳してみた」(中略) 世界の情勢と日の現状をよくよく検討した結果、ありえないと思われる方法をあえてとることにより、この状況を収拾したい。常に私に忠実であるあなたがた日臣民の皆さんに、今から私の決断を伝えよう。 私は日政府担当者に米国、英国、中国、ソビエト連邦の4カ国に対して、日が(ポツダム)共同宣言を受け入れると伝えることを指示した。 そもそも私たち日国民が穏やかで安心な暮らしができ、世界全体と繁栄の喜びを共有することは、歴代の天皇が代々受け継いで守ってきた教えであり、私自身もその教えを非常に大事なことと考えてきた。 最初に米英2カ国に宣戦布告した理由も日の自立とアジアの安定を願う気持ちからであり、ほかの国の主権を侵したり、その領土を侵したりすることが、私の目指すところであったわけではない。 けれども戦争はすでに4年も続いており、我

    kahn77
    kahn77 2012/08/21
    玉音放送口語訳。
  • 原爆投下の正当性 - Chikirinの日記

    戦後60年ということで、様々なテレビが特集を組んでいます。明日は ・終戦記念日(日の一般人の皆様) ・敗戦記念日(日の思想家、社会派の皆様) ・独立・解放記念日(韓国中国などの皆様) ・戦勝記念日(アメリカなど戦勝国の皆様) です。あちこちで、それぞれの記念日が祝われるのでしょう。 「原爆投下の是非」という問題について、下記の3つの視点から書いておきます。 (1)原爆を落としたアメリカの行動の正当性 (2)原爆を落とされた日の行動の正当性 (3)原爆が落とされたことの影響 ★★★ (1)原爆を落としたアメリカの行動の正当性 ふたつの主張があります。 ひとつは「戦争を早期終結させるために原爆は必要、有効であった」「原爆を落としてなければ、日土決戦までやっていた。落とさなければ、アメリカでも日でも、もっと多数の犠牲者がでたはず」したがって「アメリカはある意味ではいいことをしたの

    原爆投下の正当性 - Chikirinの日記
  • 【閲覧注意】1870年頃の日本の新聞に描かれていた挿絵

  • 『東西南北 別冊01 ― 地域社会における在日朝鮮人とGHQ』目次

    占領期における地域社会と在日朝鮮人―地方史から見えてくるもの……ロバート・リケット 占領期宮城県地域における在日朝鮮人社会……李榮娘 * 山口県における民族教育擁護運動……瀬上幸恵 益田事件―私的なノート……笹征男 [特別報告]国旗掲揚問題と在日朝鮮人社会……孫文奎 怒りの海峡―ある在日朝鮮人の戦後史……金興坤 [証言1]評定河原事件をめぐって―金興坤さんと鄭達先さんのお話 [証言2]占領下の日常生活―鄭達先さんのお話 [証言3]宮城県共産党と仙台の在日朝鮮人社会―高橋正美さんと遠藤忠夫さんのお話 柳少年と竹とんぼ……高橋正美 資料 写真 結び……篠原睦治 朝鮮研究会の研究発表一覧/朝鮮研究会のメンバー一覧 『東西南北・別冊』発刊にあたって……岡喜裕 *「榮」は正しくは「 」。パソコン用フォントにないので代用しています。この『東西南北』別冊01においてはすべ

  • 『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社〜 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本 | 日本の面影

    『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社 〜 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵 (2009.3) 小さな子を持つお母さんなら、今日のタイトル見て、卒倒するような方が、きっと多いことだろう。 日における子供への左翼洗脳。 そのワナはそこかしこ、いたるところに仕掛けられている。 平和や平等を利権に日を貶める、日の左翼勢力とは、何と強大であることか。 絵の福音館、子供を持つお母さんならみなご存知。 『ぐりとぐら』、『エルマーのぼうけん』、子供向け絵雑誌の『こどものとも』などで、とても有名。 講談社や朝日新聞・TV朝日、TBSらの反日メディアグループに勝るとも劣らず、実は児童書で有名な福音館も筋金入りの反日左翼出版社。 以下は、福音館の『絵で見る 日歴史』という子供向け絵の記述。大体、こんな具合。 ****************************

    『ぐりとぐら』 『こどものとも』の児童書 福音館は反日出版社〜 天皇を貶め、自虐史観に満ちた子供向け絵本 | 日本の面影
    kahn77
    kahn77 2010/07/07
    そういうフィルターを通して見れば、全てそう見えてしまうという見本。
  • 拍手が変えた日本の歴史〜道鏡を滅ぼした憎悪の正体 | Kousyoublog

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  • 伊藤博文がお札から消えたわけ - Chikirinの日記

    のお札の図柄は、2004年に樋口一葉が登場したり、(みんな忘れてるでしょ的な)2千円札が発行されたりと時々変更になってますが、特に注目すべきは 1984年の改定です。 額面 1984年10月まで 1984年(昭和59年)11月〜 2004年11月〜 一万円 聖徳太子 福沢諭吉 福沢諭吉 5千円 聖徳太子 新渡戸稲造 樋口一葉 1000円 伊藤博文 夏目漱石 野口英世 500円 岩倉具視 廃止 廃止 上記でわかるように、1984年11月以降、日のお札からは「政治家」が消えています。 それまでのお札に載っていたのは多くが政治家でした。 伊藤博文は明治の宰相(総理大臣)、聖徳太子も政治家です。 当時使われていた 500円札の岩倉具視や、インフレ前に最も普及していた 100円札の板垣退助も政治家でした。 けれど 1984年の改定以降、日政治家はお札から消えてしまいます。 新たに選ばれた夏

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  • フランスの難民キャンプが報復として盛大に燃やされる(画像あり)

    1: キドクラッチ(ドイツ)@\(^o^)/ 2015/11/14(土) 20:25:19.14 ID:bypXSUQ90●.net BE:479913954-2BP(2500) sssp://img.2ch.sc/ico/nida.gif ソース @papocchio: フランスのカレーにあるシリア難民キャンプのテントがパリの同時多発テロ事件の報復と、フランス人に燃やされている。こうした負の連鎖を糾弾する日のメディアは今のところ皆無。

    フランスの難民キャンプが報復として盛大に燃やされる(画像あり)
  • 古文書からみた日琉関係 - 我が九条

    少し古文書に関わる問題。 日国王と琉球国王の間の外交文書のやり取り。まずは日国王から琉球国王へ。 御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ 応永廿一年十一月廿五日 りうきう国のよのぬしへ(朱印) 言うまでもないが、「日国王」とは室町殿のこと。応永21(1414)年の室町殿は足利義持。さらに言えば「室町殿」と「室町幕府の将軍」とは必ずしも一致しない。足利義満は将軍の座を義持に譲り、出家してからも、さまざまな政務を行っていたし、義持も義量に譲ってからも政務を見ていた。室町幕府は基的に足利家の家政機関の発展系とみなせる。室町殿とは足利家の家督者である。 この文書は一般に御内書と呼ばれるが、厳密に言えば年号が記されている点をはじめ、御内書とカテゴライズするには問題が多い。そこで御内書を挙げておこう。 馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀

    古文書からみた日琉関係 - 我が九条
  • 日米開戦の原因は「人種理論」? - MSN産経ニュース

    映画「父親たちの星条旗」の原作者で、このほど第二次大戦での日米開戦の原点を探った新著「インペリアル・クルーズ」を出版したノンフィクション作家、ジェームス・ブラッドリー氏(56)が産経新聞の取材に応じ、日露戦争当時のセオドア・ルーズベルト大統領の「人種理論」を反映したアジア外交が、その後の開戦の火種を作ったとの見方を明らかにした。 同書は、19世紀以降の米国の帝国主義的アジア・太平洋政策を追う中で、日露戦争末期の1905年、ルーズベルトによってアジアに派遣されたタフト特使と桂太郎首相との間に交わされた覚書「桂−タフト協定」を、後の日米対立の原点にすえた。 協定は、韓国における日の優越的立場と、米国のフィリピン統治を相互に認めるという内容だった。だが、ブラッドリー氏は、ルーズベルトは当時の米支配階級の間に珍しくなかった白人至上主義的な「人種理論」の持ち主だったと断じた上で、「日をアングロサ

  • 1880年代日本の彩色写真とファルサーリの物語

    黒船来航1853年、開国1854年、そしてこれが1880年代の日。 撮ったのはアドルフォ・ファルサーリ(Adolfo Farsari)です。過ぎし日の世界を今に伝える写真。息を呑むばかりですね。 写真に劣らず興味が尽きないのが、ファルサーリの生涯でしょう。 北イタリア生まれ。ナポリで陸軍入隊。借金から逃げるようにアメリカに渡り、奴隷制廃止運動に傾倒し南北戦争では北軍に入隊します。書物だけ頼りに独学で写真を覚えて独立、小金持ちの未亡人と結婚。2人の子宝に恵まれながらも離婚。またまた逃げるように単身日に渡って横浜で写真館を構え、土産物や出版物を手広く扱う会社を起業します。 なんかよくわからないけど、日初(?)のガイドブックも自分で調べて出してたみたいですよ。晩年はホームシックでイタリアに帰ってしまいますが。 カメラ大国日で最初に写真が盛んになった街は横浜と長崎。 1860年代から横浜

    1880年代日本の彩色写真とファルサーリの物語
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