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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (47)

  • エミシとは何か - 我が九条

    アイヌ史をいかに記述するべきか。ブックマークにあった次の議論から説き起こしたい。id:m-matsuoka氏の「歴史は、物事を記録しておくという歴史文化を持つ民族にしかつくれないわけで、歴史文化をもたなかったアイヌの歴史を認めろというのは変。」というブクマ。氏の歴史とは何か、というのを聞きたい。少なくとも歴史学研究者の考える「歴史」とは全く違うものなのだろう。 私の所属する歴史学界の定義する歴史学における歴史叙述とは幾重にも限定を受けた文字資料を題材として、ある史観に基づいて過去を再構築する試みである、と考えている。歴史的現実はそれこそ無数にある。極端に言えば今起きていることも「歴史的現実」である。過去に起こった「歴史的現実」を叙述する時に残された痕跡から過去を復元するのが広義の歴史学である。その時に使う資料によって次の3つに分かれる。文字史料によって「歴史的現実」を復元するのが狭義の歴史

    エミシとは何か - 我が九条
    kamayan
    kamayan 2017/06/25
  • 近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条

    キリンのサイトには 古くは1483(文明15)年の『後法興院記』に、関白近衛家の人間が「チンタ」を飲んだという記述がある。このチンタが赤葡萄酒のことといわれている。 という記述がある。ワインと日人|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン 手元にある『後法興院記』文明15年をいくら読み返しても「チンタ」など出てこない。「チンタ」はポルトガル語由来らしいが、文明15年、1483年にポルトガル語が日に伝来している可能性はほぼないだろう。 サントリーも同様の内容を載せている。 この時代に書かれた公家日記「後法興院記」に、「珍蛇(チンタ)」というお酒を飲んだという記述があります。 この「珍蛇」は、スペインやポルトガルから伝わった赤ワインを指すと考えられています 日ワインの歴史|日ワイン サントリー 次にこんな記述が酒店のサイトにある。 かなり確かなのは文明15年(1483年)の『後法

    近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条
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    kamayan 2016/07/21
  • アイヌ勘定 - 我が九条

    鮭を商う時に「はじめ、1・・・10、おわり」と言って二匹ちょろまかす。落語の時蕎麦みたいなこの商い方法を「アイヌ勘定」といい、和人(アイヌ以外の「日人」のこと)の非道さを見事に言い表している。これがひどくなると、和人からの交易の品はふるぼけた漆器や粗悪な刀などを高価に売りさばき、中には竹光を「抜いたら罰が当たる」と言って売りつけたひどい和人商人もいたという。このような極悪非道な和人との交易で原始共産制社会に生きていた純朴なアイヌは滅亡の淵に立たされた。 などという言説を時々目にする。これほどアイヌをバカにした言説はない。このような「純朴なアイヌ」像の解体が必要である。 我が身に引きつければわかりやすい話なのだが、ブランド物、あれも一種の搾取だ。私は阪神タイガースのグッズをかなり高価で買う。単なるクリアファイルであれば一枚十円で手に入る。それを百円以上で買うのだ。タイガースのマークが入った

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    kamayan 2014/09/20
  • どう伝えるか - 我が九条

    歴史学研究においてはしばしば時空を超越した解釈がまかり通る。11ノットで疾走する帆船もその一つだろうが、北方史でもそういう事例がある。現在津軽安藤氏が十三湊から没落したのは嘉吉二年(1442)が定説の地位を占めている。曰く、南部義政は安藤盛季の婿となって油断させ、嘉吉二年に一気に十三湊を陥れた、という。盛季は翌年死去し、安藤氏は北海道に落ちのびた、という。これは『新羅之記録』という17世紀中頃に松前景広によって記された著作に依拠している。 しかし『満済准后日記』には永享四年(1432)に下国(安藤氏)と南部氏が合戦して下国氏が北海道に没落した、という記述がある。矛盾する二つの史料がある場合、信頼性の高い史料を優先すべき、と私は考えるのだが、その見解は学界の大勢とは異なるようだ。現在の通説は、そこに足利義教の強力なリーダーシップが発揮され、安藤氏は十三湊に帰還できたが、嘉吉の乱で義教が横死す

    どう伝えるか - 我が九条
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    kamayan 2013/01/17
  • 「元寇」はなかった? - 我が九条

    まずは「順性御物以下注進状案」(『青方文書』所収、出典は『松浦党関係史料集 第一』二〇二号文書)より。永仁六年(一二九八年)の話。 葛西殿御分 注進 御物以下雑物等事 一 さきん*1弐百四十両、四もんめ 一 まとめかね六十切 一 ほそきぬの事 二十ひろのぬの四十三たん、十三ひろ廿たん、三十ひろ廿五たん、四十ひろ十三たん 一 ミつかね*2たる二 一 かなとう*3一りやう、むらさきかはおとし*4 一 はらあて*5一りやう、けハあかゝハおとし 一 たち*6一こし、めぬきハきんをすかす、あさらしのしさや 一 さすり(かカ)二、ふへとうつか、さやのしりぬき、きんをすかす 一 ちやつきのたい*7、なしちにきんのひたをまく 一 ちいさきはんさうたらい*8、なしちのまきゑ 一 すゝはこ*9八かくるり、なしちにまく 一 をくむらさきのとのいもの*10、うらをもて たゝしをもてハかうしのあやなり 一 ちやいる

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    kamayan 2012/04/04
  • 「室町幕府はなかった」 - 我が九条

    1336年、足利直義らは建武式目を制定し、新たな武家政権の発足を宣言した。1338年には足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた。尊氏は後醍醐天皇への対策から京都に武家政権を樹立する事が不可避であった。尊氏は二条万里小路に屋敷を構え、足利直義は三条坊門に屋敷を構えた。足利義詮は三条坊門万里小路に屋敷を構え、足利義満にいたってはじめて北小路室町に屋敷を構える事になる。後に義満は室町第を足利義持に譲って自らは北山殿を構え、そこを政庁とする。義持は父の死後三条坊門に屋敷を構え、足利義量は室町第に入るが、ほどなく死去する。足利義教・足利義勝は室町第に、足利義政は当初は怨霊を恐れて養育されていた烏丸資任の高倉第にいたが、長ずるに従い、室町第に移り、晩年は東山殿で過ごした。義稙は三条坊門に始まり、放生津、一乗谷、山口と動き、京都に戻った後に堺から阿波国撫養で死去している。足利義澄は京都時代どこにいたかはしかと

    「室町幕府はなかった」 - 我が九条
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    kamayan 2012/03/06
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

    鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条
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    kamayan 2012/02/27
    「鎌倉幕府のまぼろし」 何を揶揄しているかは賢明なる読者諸姉諸兄はおわかりだろう。
  • 大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条

    「王家がどう」とか「色彩がどう」とかツッコミがあるが、一番のツッコミ所はやはり吹石一恵演じる舞子が院御所で殺されたところだろう。ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない。吹石一恵が忙しくて初回しか出演できないのであれば、御所の外で殺される、とかやりようはあったはずだ。 かつて『北条時宗』で近衛基平が御所内で自害するシーンがあり、それについて郷和人氏は次のように述べている。 平安末にラーメンが存在したか否か。これは知っている・知らないの問題にすぎない。清盛が白河上皇の落胤か否か。これは学説の分かれるところですので、どちらを採ることも可能です。でも何十年も研鑽を積んでいるはずなのに、天皇や朝廷の質を理解していないとなれば、これは中世史研究者としてのこの上ない恥辱です。関白に御所で切腹させるとは、考証役の私はダメな研究者だと、満天下に広言しているのに等しい。ですから、こうした根

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    kamayan 2012/01/13
  • 北海道旧土人保護法成立の経緯 - 我が九条

    エスノサイドは何も武力のみで成立するのではない。一番効果的なエスノサイドは同化政策である。言語を奪い、文化を抹殺する。その時に完全に同化するのではなく、その文化に「未開」という劣等性を刻印したうえであたかも博物館か何かに残すような形で「保存」し「保護」する。チベット問題で中国の愛国ブロガーが書き残す「行儀良くしていれば、文化と恩恵を守ってやるのに」「お行儀が悪くても、それでも文化は面倒を見てやる。博物館に収めてね」というような言葉は、その典型例である。あくまでも「保護」される対象として少数民族を見なす。これがもっとも効果的な文化的虐殺である。我々がなさねばならないのはこのような文化的虐殺を否定することである。少数民族の文化を「劣等性の刻印」から解放することである。 アイヌ問題を象徴する法律の代表的なものである北海道旧土人保護法に関してmuffdiving氏が非常に当を得たまとめをしてくださ

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    kamayan 2012/01/03
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

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    kamayan 2011/06/12
  • 中世同性愛事情 - 我が九条

    石原慎太郎東京都知事の発言「(同性愛者は)どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょ。マイノリティーで気の毒ですよ」 藤原頼長も足利義持も大乗院尋尊も「どこかやっぱり足りない」「マイノリティーで気の毒」な人々らしい。それを言い出せば、前近代の日の支配層はすべて「どこかやっぱり足りない」「マイノリティーで気の毒」な人々だろう。まあ当時の支配者はみな天皇家を中心に血統関係はかなり近かったから、「遺伝とかのせい」かも知れないが(笑) 日の伝統や歴史について「どこかやっぱり足りない」人なのだろうな。 追記 そういえばこの前テレビをみていたら、マツコデラックスと石原良純が共演していた。良純さんも大変だな。放言癖のある父親をもつ芸能人は。

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    kamayan 2011/01/20
  • 鎮魂の寺院 - 我が九条

    恨みを残した死者は祟る。その祟りを避けるために鎮魂が行われる。 戦没者は自らを死に追いやった国家に祟る。だから祟らないように鎮魂を行う必要があるのである。秋山哲雄氏は『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)で鎌倉に寺院が多い理由を考察しているが、そこで「鎮魂の寺院」について述べている。 円覚寺は「蒙古襲来」で戦死した全ての人々(日・高麗・元・旧南宋など)を、敵味方関係なく鎮魂するために北条時宗が建立した寺院である。永福寺は源平合戦や奥州合戦で戦死した全ての人々(源氏はもとより平家や源義経・藤原泰衡も)を、敵味方関係なく鎮魂するために源頼朝が建立したものであった。宝戒寺は鎌倉で滅亡した得宗家の人々を鎮魂するために後醍醐天皇が建立した寺院である。 秋山氏は次のように指摘する。「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。現代にお

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    kamayan 2010/08/17
    ヤスクニは日本の伝統から断絶している
  • 本村健太郎弁護士の冤罪対策 - 我が九条

    テレビ番組を見ていると村健太郎弁護士が出て来て、法律知識について話していた。その中でなるほどと思ったこと。 痴漢冤罪で自分がやっていないのであれば、駅長室に同行してはダメ、ということらしい。駅長室に行くと、まず警察に突き出され、警察では拘留され、否認しても今の日の刑事裁判は99.9%有罪、否認していても97%有罪という現状では、まず勝ち目はない。やっていないのであれば、速やかに現場を立ち去らなければならない、ということであった。出演者の「免許証などを出せばいいんですよね」という質問に対しては「どうしても出さないと、という雰囲気であれば仕方がない」というニュアンスであった。基的にはそのようなことも必要ないのだろう。それはそうだ。任意同行のレベルだから、応じる義務はない。村弁護士は「話せば分かる、ということはありません。向こうは決めつけてきますから」と注意喚起していた。刑事裁判を多く手

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    kamayan 2010/06/21
    日本の司法システムの欠陥
  • 権門体制論理解のために - 我が九条

    中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。 これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。 権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。 ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価している

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  • 古文書からみた日琉関係 - 我が九条

    少し古文書に関わる問題。 日国王と琉球国王の間の外交文書のやり取り。まずは日国王から琉球国王へ。 御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ 応永廿一年十一月廿五日 りうきう国のよのぬしへ(朱印) 言うまでもないが、「日国王」とは室町殿のこと。応永21(1414)年の室町殿は足利義持。さらに言えば「室町殿」と「室町幕府の将軍」とは必ずしも一致しない。足利義満は将軍の座を義持に譲り、出家してからも、さまざまな政務を行っていたし、義持も義量に譲ってからも政務を見ていた。室町幕府は基的に足利家の家政機関の発展系とみなせる。室町殿とは足利家の家督者である。 この文書は一般に御内書と呼ばれるが、厳密に言えば年号が記されている点をはじめ、御内書とカテゴライズするには問題が多い。そこで御内書を挙げておこう。 馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀

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  • チャルマーズ・ジョンソン 元カリフォルニア大学政治学教授 - 我が九条

    CIAの顧問も務めたチャルマーズ・ジョンソン 元カリフォルニア大学政治学教授のインタビュー記事(「http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/diamond-20100510-03/1.htm」)。まあこういう見方もできる、ということで、参考までに。 これまでの日米両政府の関係について。 まったく悲劇的だ。両政府は1995年の米兵少女暴行事件以来ずっと交渉を続けてきたが、いまだに解決していない。実を言えば、米国には普天間飛行場は必要なく、無条件で閉鎖すべきだ。在日米軍はすでに嘉手納、岩国、横須賀など広大な基地を多く持ち、これで十分である。 そもそもこの問題は少女暴行事件の後、日の橋首相(当時)がクリントン大統領(当時)に「普天間基地をなんとかしてほしい」ということで始まった。この時、橋首相は普天間飛行場の移設ではなく、無条件の基地閉鎖を求めるべき

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  • 「裁判記録」について - 我が九条

    b:id:gouk氏の「今度は裁判の話???」(http://gattee.net/talk/201002/201002post-105.html)を受けて、エントリとして独立させた。 ここで問題になっている「裁判記録」というのは、 「判決理由のついた裁判記録が存在し、かつその判決理由で『ごぼうをべさせた』ことのみが有罪の決め手となり、判決が死刑だったとする」 という「裁判記録」である。ごぼうのことも一因となって訴追され、結果、さまざまな訴因で死刑判決が出たという裁判記録を読んだのであれば、そのことに言及すればよかっただけの話である。例えば 「牛蒡が原因で死刑になった、という記述すらも物語の一つであり、真実ではない。」 と、gouk氏の認識通りに処理しておけば、それで多分この問題は終わっていたのである。もちろんそれで議論が終わるとは限らないが、これにさらに突っ込むと、逆に「はてなブロガー

    「裁判記録」について - 我が九条
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    kamayan 2010/02/02
  • 一連の問題の所在 - 我が九条

    (上に出ているブクマ以外にこのブクマありはてなブックマーク - 2010-02-01 - 我が九条) この一連の動きでの問題の所在は何なのか。そこが今一つ共有されていない。 まずは動きを簡単に時系列で追いかけてみる。 ガメ氏がエントリで次のように発言する。 ついでに国民のほうは「隣の国がうるせーで、あの死んだにーさんたちが集まってる神社はなかったことにすべ」とゆいだした。 「なんか新しい公団住宅みたいな墓苑にすればいーんでない?」 そーゆーのをゴツゴーシュギというんじゃ、ボケ。 それに対しApeman氏がブコメで「へぇ。それ誰のこと? 」とコメントした。 次にガメ氏のエントリにおいて次のような記述がある。 戦後の日人BC級戦犯の裁判記録を読んでいると、こういう些細な誤解が時にいかに重大な結果を引き起こすか、よくわかります。 わっしは、「死の行進」で弱りきったアメリカ兵になけなしのキンピラ

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    kamayan 2010/02/02
  • 表現の自由覚書3 - 我が九条

    もう一つ、知る権利に関する判例。富山地裁の判例。富山県立美術館が購入した版画が、県議会議員の質問や政治団体、宗教関係者のデモ、抗議によって売却され、図録は焼却処分となったことについて、版画の製作者らが県立美術館を提訴したものである。県側の主張は「件作品が県議会で取り上げられた翌日の昭和61年6月5日以降」「面会要求、電話による抗議、抗議文の送付などが殺到し、中には件作品の廃棄や館長らの辞任を求め街宣活動を行う者もあ」り、「県知事が知事室において殴りかかられたこともあった」ということで、管理運営上、公開中止・売却は止むを得ないというものであった。 住民への情報提供を目的とする公の施設につき、管理者が正当な理由なく利用を拒否することは、憲法の保障する知る権利の不当な制限に当たる。美術館の作品と図録の閲覧を管理運営上の障害を理由に拒否するには、客観的事実に照らし、公開により人の生命・身体・財

    表現の自由覚書3 - 我が九条
    kamayan
    kamayan 2010/01/01
  • 表現の自由覚書2 - 我が九条

    行政書士合格指導講座に依拠しながら『岩波判例基六法』に収載された判例をみていくことで、「表現の自由」について考える材料を整理してみようと言う企画。例によっていつ飽きて放置するか、今のところ不明。北条時輔発給文書とか、撫民法とか、「我が九条(九条家の歴代当主の履歴を調べる)」とか、知里幸恵日記とか、いろいろやりかけて放置中のがあるなぁ(遠い目)。 まずは日国憲法21条を。 集会、結社及び言論、出版その他の一切の表現の自由は、これを保障する。 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 「知る権利」というのがある。表現の自由は受け手の存在を前提としているので、表現の受け手の自由である「知る権利」も、表現の自由に含まれる、らしい。 ちなみに「知る権利」というのは、情報の受領を妨げられないという自由権的性格と、国家に対して情報の公開を要求する請求権的性格がある。請求権

    表現の自由覚書2 - 我が九条