『週刊読書人』を立ち読みしたら、栗原さんの文藝時評で西村賢太をとりあげて、こういう自己戯画化小説を私小説と呼ぶのはどうか、みたいなことが書いてあった。 私小説という語は、このように定義なく恣意的に使われてきたわけで、漱石の『道草』など普通に考えれば私小説なのに、そうではない、と強弁され続けてきて、それはたとえば長塚節の『土』が明らかに自然主義小説なのに、長塚が自然派ではないからそうは言われなかった、と正宗白鳥が『自然主義盛衰史』で述べているとおりである。 鈴木登美『語られた自己』は、近代日本の私小説言説を精査して、私小説言説は盛んだったが、結局私小説がまともに定義されたことはなかったとしている。 私小説の定義は、しかし難しく、たとえば保坂和志の『季節の記憶』のように、一見私小説のように見えて、実は保坂には子供はおらず虚構であるといった例、『若きウェルテルの悩み』のように、はっきりモデルもお