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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (116)

  • なぜ美少年趣味につきあわなければいけないのか - jun-jun1965の日記

    佐藤亜紀の「天使」という、藝術選奨新人賞を受賞した長編小説は、第一次大戦を背景に、超能力を持つ少年を描いた作品だが、半ばまで読んでも面白くないので、文春文庫版の豊崎由美の解説を読んでみた。するとこれは、美少年が貴族的美青年へ成長していくのを舌なめずりしながら読むという美少年趣味小説であるということが分かり、まあそれなら私が読んでも面白くないのは当然だなと思った。 だが不思議なのは、豊崎がそのように解説しながら、なぜ世間の文藝評論家はこの才能を理解しないのかと獅子吼していることで、今もやっているようだが、なんで美少年小説を文藝評論家が評価するいわれがあろうか。 なるほど佐藤は『小説のストラテジー』を読めばヨーロッパ文化に造詣が深いのは分かるし、文章も巧みに書けている。もっとも私は他の作家でも、こういう技巧的な文章は評価しないのだが。 私が大学に入ったのは1982年で、豊崎も佐藤もだいたい同

    なぜ美少年趣味につきあわなければいけないのか - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2020/10/21
    谷崎大好き猫猫先生は、そういうのつきあわないほうがいいんですよ。
  • たり〜たりの神話 - jun-jun1965の日記

    学校文法でもNHKでも、「昇ったり降りたり」のように、「たり」は繰り返さなければいけないとされ、「友達と遊んだり買いいをして」とするのは間違いだとされている。しかし円地文子の「二世の縁 拾遺」には、「女の家のの額ほどの畠を定助がせっせと耕したり鍋釜を裏の流れで洗っているのを見るようになった」とある。 上田万年の娘で藝術院会員で文化勲章で『源氏物語』を現代語訳した円地文子が間違うであろうか。私はこの「たり〜たり」は、かつての「全然」は打ち消しをともなう、と同じような神話なのではないかと思うのである。そのことを調べるためには近代日の文章をよく調べないといけないのであるが。 - http://okwave.jp/qa/q8697316.html 小野小町の「花の色は移りにけりな」の歌についてこの人は「心変わり」ではないかと考えているのだが、田中喜美春の『小町時雨』(1984)ではこれが小野

    たり〜たりの神話 - jun-jun1965の日記
  • ダンテか藤村か - jun-jun1965の日記

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120101 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20121127 以上、議論になっているのだが、十川先生には葉書を出さなければと思いつつ、公の場で議論したいなあと思っている。すると新潟大の三浦淳先生からも、こんなメールが来た。 30ページで、芥川が『或阿呆の一生』の中で「『新生』の主人公ほど老獪な偽 善者に出会ったことはなかった」と述べていることに関して、これは 島崎藤村 の『新生』ではなくダンテの『新生』ではないか、と書いておられます。 芥川はエッセイ『侏儒の言葉』でも、「「新生」読後」という見出しで、「果 して「新生」はあつたであらうか」と書いています。この場合も前後に ゲーテ やスウイフト、トルストイ、ストリントベリらの西洋文学者の名が出てくるの で、小谷野さんの説にも一理はある

    ダンテか藤村か - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2013/03/23
    藤村は芥川の追悼文の中で、『新生』が自分の作品を指していることを認めているんですよね。
  • ■ - jun-jun1965の日記

    中川右介氏は『聴かなくても語れるクラシック』(日経プレミアシリーズ)で、クラシックが難しいと言われるのは、歌詞がない、あるいは外国語だからだ、と述べているが、それはどうかな。 松田聖子の「ハートにロック」の語り手は、恋人にクラシックのコンサートに連れて行かれて、盛んに退屈だ、ロックがいい、と言っている。私はこんなバカ女とつきあうのはまっぴらごめんだが、歌詞によると、それはバッハだったらしい。しかし、ここが、ビゼーやチャイコフスキーだったら、しっくり来ないだろう。ましてやプロコフィエフのピアノ協奏曲三番など聴きながら、ロックがいいとか言っていたらそれは頭がどうかしている。 カルメン前奏曲を聴いて、好きか嫌いかは別としても、退屈、と言う人はあまりいまい。私はジャズが苦手だが、それでも『スウィングガールズ』の最後みたいに、イージーリスニングなジャズをアレンジしてうまく演出したら、そりゃあ「ジャズ

    ■ - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2012/09/02
    Let It Bleed はローリング・ストーンズです。
  • 『福田恆存』について - jun-jun1965の日記

    ミネルヴァ書房日評伝選(いったい何が「選」なのか不明だが)の川久保剛『福田恆存』は、初の福田の伝記である。私は若いころ、西部さんとか呉智英さんが盛んに言うので、福田を偉いと思っていたが、最近は評価が下がっている。シェイクスピアの翻訳は硬くて、あとから出た小田島訳はもとより、同時代の中野好夫、三神勲などの訳に比べてさえ、悪い意味で「新劇」である。戯曲は今ではあまり読むにも上演するにも耐えない。国語国字問題については、福田が正しいのだが、福田を称揚する人びとが新字新かなで書いていたりするのだから、あほらしい。平和問題については、今ではまともな人はみな福田に賛同するだろう。文学論については、私は評価しえない。 それにしても、伝記が出るのはいいことだ。かつて坪内祐三は、江藤淳が家系自慢をするのを批判して、神田の電気屋の息子だった福田が聞いたら何と思うか、と書いたが、恆存の父幸四郎は、ただの電気職

    『福田恆存』について - jun-jun1965の日記
  • 特撮ロボットは退化する。 - jun-jun1965の日記

    「ゴレンジャー」に始まるスーパー戦隊シリーズでは、いったん等身大の敵が倒されたあと、これが巨大化し、レンジャーたちがロボットを呼んで乗り込んでこれと戦うというのがパターンである。これは玩具として販売され、販促で登場するので欠かせないが、このパターンのために、戦隊シリーズはどうしても対象年齢が低くなってしまう。タイムボカンシリーズも最後はパターン化されていたが、これはそれ自体をギャグとして楽しむ構造になっていた。しかし戦隊のほうは、見るたびに「玩具を売るんだなあ」というむなしさがつきまとう。 それにしても、なんでああ不細工なデザインなのであろう。特撮のロボットというのは、デザイン的には退化しているとしか思えないのだ。ジャイアントロボの、あの悲哀をこめた表情や、マグマ大使の顔に比べ、レッドバロン以降は、まるで洗練というものがない。アニメのほうは、マジンガーZ以来、次第に洗練されていったのに、な

    特撮ロボットは退化する。 - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2012/07/07
    ゴレンジャーには巨大ロボは登場しない。登場するのはバトルフィーバーJ以降じゃなかったかな。
  • 水村美苗『本格小説』 - jun-jun1965の日記

    水村美苗の小説がまた売れているそうであるが、この人は小説を書くと必ず何か賞をとる恐ろしい人なので、今度は谷崎賞をとるのだろうか。(後記・大佛次郎賞をとった) さて私は前の『小説』(読売文学賞)を読んでいなかったので、読み始めた。文庫版で上下二冊、上巻前半は、「水村美苗」という、作家と同じ境遇の人物が、東太郎という男を知り、のちその東の知られざる過去を聞くまで、が描かれている。それが終わるころ、水村の小説論のごときものが挿入されて、「小説」という、『嵐が丘』の書き直しみたいな小説の序文をなす。「小説」というのは、昭和初年、「私小説」の対義語として用いられた言葉で、時には通俗小説にも使われた。 「水村美苗」はとりあえず作中の語り手ということになるが、面倒なので水村とするが、自分のことを書いた小説というのはどの国にもある、と言う。その通りだ。ところがそこから、作家は自分の不幸を売りた

    水村美苗『本格小説』 - jun-jun1965の日記
  • 独身男女の差 - jun-jun1965の日記

    『大学ランキング2013』が届いたので、私が怨念をこめて書いた部分を見たら、すぐ後ろに佐伯順子先生が女性大学教員について書いていた。最近、五十前後で女性学者が亡くなることが多い、とあるのは菅聡子先生のことか。佐伯さんはそれを過重労働が原因という風に書くのだが、菅さんの死因は過労ではなかったと思う。過労と言えるのは古いが千野香織、あと男で大澤吉博さん、これは歴然たる過労死だった。北川東子さんにしても、過労が原因といえるかどうか。 それはいいとして、実は論旨に奇妙なよじれがあって、ただこれは分量的にやむをえないのだが、男はがいて家事育児をしてくれるが女はそうではない、というのだが、ここで当は佐伯さんは、子育てを同居している母親に任せている働く女に怒りを覚えているのだ。それは大変よく分かる。また夫婦共稼ぎでも家事育児は女がやるという状況が残っていることもあり、それに怒りを覚えるのはいくらか分

    独身男女の差 - jun-jun1965の日記
  • 蔑称としての「L文学」 - jun-jun1965の日記

    あれは私がまだ明治大学で教えていた頃だが、斎藤美奈子が「L文学」というのを、「J文学」に倣って冗談で雑誌で特集したら妙に評判が良かったので『L文学読』というのを出したことがあった。まあちゃんと読んではいないのだが、女性作家によるフェミニズムっぽい文学ということで、リブとかリヴとかレディーとかのLだったと記憶する。 もっともさすがにこの「L文学」は、国鉄がJRに変った時、「国電」の代わりとして正式に持ち出された呼称「E電」よりはまし、という程度で定着はしなかったのだが、私はこのちょっと古い革袋に新しい酒を盛って、蔑称としてのL文学を提唱したいのである。 このL文学は、おおむねは女性作家によって書かれる。ただそのうち男性作家も参入してくるだろうという気もする。だいたい二十代から三十代前半の女二、三人が主人公で、筋らしい筋、華々しい展開などはなく、会社とかそんなところが舞台で、恋愛っぽいことも

    蔑称としての「L文学」 - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2012/04/20
    『1Q84』の青豆もこのたぐい。マーシャルアーツみたいなカタカナ語がやたらと出てくる。
  • メトロン星人の煙草  - jun-jun1965の日記

    最近雑誌でよく安冨歩という人が出てくる。「東大話法」とかいうので話題の人らしい。人は経済学専攻で、東大東文研の教授である。まあこれはしかし、キャッチフレーズの問題で、普通は「官僚的な回答」とかいうのを「東大話法」と言い換えているだけだ。 ところが『一冊の』4月号が届いて、この安冨氏が書いている。伊藤計劃の『虐殺器官』について、失敗していると言い、それはチョムスキーの言語学を用いたからだと言って、チョムスキー系言語学を否定するのである。私は別に、どこかの誰かみたいに、チョムスキーを否定するなんてけしからんと騒ぎはしないが、この人は筆致からするに、チョムスキー系の言語学についてちゃんと勉強したことがないのではないかと思う。 それはともかく、『ハーモニー』が良かったので読んでみたが『虐殺器官』は良くなかった。いかにも軍事的なディテールを描きこんでいるという文章もまずい。問題はあの「虐殺の言語

    メトロン星人の煙草  - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2012/03/31
    メトロン星人の煙草を売っている自動販売機は、何度も機種が変わりましたが、今でも同じ場所にあるんですよ。
  • ブログと私小説 - jun-jun1965の日記

    最近、私小説を論じて、今ではブログやツイッターでの自分語りがあるから、それも私小説みたいなものだろう、と論じる人が多い気がする。しかし、実は違っていて、私はこれまで、ブログなどの文章が面白いので、それをつなげて小説にしたらいい、と助言したことがある。ところが、ブログといえば原稿用紙五枚くらいだが、それを二十枚の小説にすることができないのである。私から見れば、これとこれとこれと、つなげればいいのではないかと思うのだが、つなげることができないらしいのだ。 これは、三十枚くらいの論文は書けるが、一冊分となるととたんに書けなくなる学者にも、似たものがある。この場合は、30枚から200枚への飛躍なわけだが、5枚から20枚への飛躍ができない人、というのが、ブロガーには結構いるのではないかと、私は思っている。

    ブログと私小説 - jun-jun1965の日記
  • 比較文化論のインチキ  - 猫を償うに猫をもってせよ

    人ははっきりものを言わないとか、以心伝心だとか、わびだとかさびだとかいうのだが、それと対照させて、西洋人ははっきりものを言うとか、果ては上司や教師といった目上の人にもはっきりものを言うとかいうことになると、もう完全に勘違いであり幻想である。日人だってはっきり言う時は言うし、いわんや西洋人だって口を濁すことはしょっちゅうある。 それで、そういう胡散臭い比較文化論がいつごろできたのか調べていたが、恐らくはラフカディオ・ハーンの「日人の微笑」とか「駅頭にて」あたりから、ルース・ベネディクトをへて、あるところでぽーんと「上司や教師でも」というのが付け加わったのだろう。 先日から目をつけているのが、ハーバート・パッシンという男で、これは文化人類学者だが、日通とかで、『遠慮と貪欲』とかいう胡散臭い日米比較文化論を1978年に出しているが、ここでは冒頭から、日人は遠慮がちだが西洋人は違うとい

    比較文化論のインチキ  - 猫を償うに猫をもってせよ
  • 指揮者に哲学など要らない - jun-jun1965の日記

    『新潮45』の一月号に、八田利一という人による小澤征爾批判が載っていたのを読んだ。この八田利一という名は、国会図書館で検索すると一冊カメラのがあるが、これは「としかず」と読む別人らしく、「りいち」のほうは『新潮45』で年一回くらい、クラシックの演奏家批判を書いていて、石井宏の変名、というのが定説らしい。「ハッタリ」という洒落か。 さて私は、小澤については、特段の感想もない。というか、クラシック音楽の演奏家に対して、一般的に関心がない。あれは、他人が作ったものを再現しているだけだからだ。落語の場合、自分で演目に工夫を加える落語家も多いし、うまい下手はある。歌舞伎の場合、新作以外は型というものがあるが、役者の柄とか見た目というのがある。楽器演奏家であれば、やはりうまい下手、好き好きはあるし、グレン・グールドのように独自の演奏をする人もいれば、見た目の美しい女性演奏家というのもいる。 しかし指

    指揮者に哲学など要らない - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2010/12/23
    ヨーロッパの人にとっては小澤征爾はわび・さびに聞こえるらしいですよ。
  • 「上から目線」って何? - jun-jun1965の日記

    まあどうせネット用語などというのは、各人ばらばらの定義で使っているのだろうが、「上から目線」というのをこないだ言われて、まるで意味が分からなかった。そいつは、私が「××」を読め、と言って、それで相手が読むと思うのが上から目線だと言うのである。まるでわけが分からん。誰かと議論をしていて「××を読め」と言われたら、私は、読む。少なくともざっと目を通すくらいのことはする。ただ、『正法眼蔵』を全部読め、と言われたらそれは困る。 「上から目線」と言われて私がすぐに想起するのは、田由紀である。自分は東大教授の地位にありつつ、ニートやら何やらに怒りをこめて同情しているのは、もうこれはあれだ、中条百合子の「貧しき人々の群れ」に出てくる、中産階級の婦人連と同じだ。しかし、そういう意味ではなく使う人もいるようだ。 はてなキーワードによると、「自分のことを棚に上げて、他人を見下すような姿勢や言説のこと」と書い

    「上から目線」って何? - jun-jun1965の日記
  • 金閣寺の謎 - jun-jun1965の日記

    酒井順子さんから『金閣寺の燃やし方』を送ってきた。どうやら三島由紀夫割腹四十年とかで、書店にも三島関係の書籍が多くて気持ち悪い。私は三島が嫌いなのである。よく混同されるが、好きか嫌いかというのは、学問的に正しいかどうか、文学として優れているかどうかとは、重なるけれど微妙にずれる。私は三島の通俗小説や戯曲はいいと思うが、純文学作品は全然ダメである。『金閣寺』はもう、わけが分からないのの筆頭で、大学一年の時に、「『金閣寺』を読んで三島を読むのをやめた」と言ったら「そりゃあ、やめるよ」と言われたことがある。 しかし酒井さんは『金閣寺』が好きらしい。私は今まで周囲に、三島が好きだという男をあまり持たなかった。女では、あの美文がいい、という人が何人かいた。鶴田欣也先生が『金閣寺』について論文を書いていたが、分析するだけのつまらないもので、あとで、『金閣寺』好きなんですかと訊いたら、いや好きではないと

    金閣寺の謎 - jun-jun1965の日記
  • 新刊です - jun-jun1965の日記

    現代文学論争 (筑摩選書) 作者: 小谷野敦出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2010/10/15メディア: 単行購入: 9人 クリック: 165回この商品を含むブログ (25件) を見る なんか久しぶりの新刊のような気がする。 内容は、フォニイ論争、江藤淳の論争、筒井康隆の戦い、「たけくらべ」論争、「春琴抄」論争、三好-谷沢論争、「事故のてんまつ」事件、永山則夫文藝家協会入会拒否事件、反核声明論争からコム・デ・ギャルソン論争、宮沢賢治殺人事件論争、柳美里裁判の周辺、純文学論争などです。 宣伝なので言いますが、柳美里論争の真相つき。 訂正 p.25 「生地竹郎」は1980年死去 p.126 「その二年後に、高校生だった私は」→「その五年後に、大学生になった私は」 p.135 「静岡県清水」→静岡県焼津 p.164 教科書か削除されたので断筆→断筆ののち、94年11月に教科書からの削除

    新刊です - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2010/10/14
    『現代文学論争』 これは面白そう。
  • ■ - jun-jun1965の日記

    『文藝春秋』11月号の「小悪魔女優アンケート」で私が「秋桜子が全裸なので」と書いているが、これは「主演なので」の間違い。このアンケートは送られてきた用紙に手書きしてファックスしたもので、以後ゲラとか確認とかないのである。

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 死せるチュゲコンミン - 2010-10-01 - 猫を償うに猫をもってせよ

    ふと出来ごころでラテン語でもやってみるかと思って購入した大西英文『はじめてのラテン語』(講談社現代新書)を読んでいてなんか不快になった。この人は、ラテン語のVは「ヴ」ではないと言うのだがそれがしつこい。オヴィディウスと書いたらわざわざ「どう考えてもオウィディウスの間違いだろう」とか書いた奴を思い出す。 (活字化のため削除) - ゾラの『獣人』を読んだ。素晴らしかった。バルザックの『従姉ベット』の半分くらい素晴らしかった。『悪人』なんかこれから比べると末流時代の末流小説にしか見えない。同じ犯罪小説だが、スケールが違う。嫉妬、少女への性的いたずら、姦通、汽車、惨殺、その小説自体が、主人公ともいえる汽車リゾンのように、疾駆する。ゾラは再評価されているようで、藤原書店と論創社からシリーズが出ているが、私が読んだのは安く手に入れた筑摩書房の古いもので、しかし訳文はちっとも古くない。原題の海外の一流作

    死せるチュゲコンミン - 2010-10-01 - 猫を償うに猫をもってせよ
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    kanimaster 2010/10/02
    「じゃあ大西さんあなた、諸葛亮公明とか李白とか杜甫とか白楽天とか王陽明とか全部シナ語発音で言えますか、って言えるかもしれないな。」
  • 「邪宗門」の事実 - jun-jun1965の日記

    少し前にカニさんid:kanimaster が、芥川龍之介の「邪宗門」は、長編になるはずだったが中断してしまったと書いていた。私も長くそう思っていたのだが、どうも違うのではないか。 芥川は北原白秋を尊敬していて、だから始め柳川隆之介の筆名を使った。柳川は白秋の故郷、白秋の名は隆吉である。「邪宗門」も、白秋からとったのである。 さて芥川は、「大阪毎日新聞」と契約を結び、他の雑誌に小説を書いてもいいが、他の新聞には書かないという条件だった。漱石は大阪朝日で、これも雑誌には書いても良かったようだが、書かなかった。毎日と朝日はもともと大阪社で、ただ当時「東京毎日新聞」というのがあったため、毎日東京版は「東京日日新聞」になり、「大毎東日」と称された。もともと新聞小説というのは、村井弦斎、菊池幽芳、渡辺霞亭などの「家庭小説」つまり通俗小説の連載が主だった。そこに、尾崎紅葉、小栗風葉、小杉天外など

    「邪宗門」の事実 - jun-jun1965の日記
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    kanimaster 2010/09/30
    芥川先生の次回作にご期待ください。
  • 私の本の読み方  - jun-jun1965の日記

    私がを手にするのは、八割方は調べるためで、当該個所を見たら終わりである。あと必要に応じて引く。 そうでなくて「読む」場合、古典的な作品は一応読む。50pくらい読んでも全然面白くなかったら放り出す。 最近ので何か賞をとったというようなものの場合、重要なのは内容であり、小説の場合は文章も加わる。評論であれば、内容をまず確認する。一応最初の1ページくらいは読む。面白そうなら続ける。面白くなさそうだったら、ぱっぱっぱとページをめくり、やっぱり面白くなさそうだったら放り出す。 小説の場合、映画化されていることがあるから、もし映画を先に観ていたら、文章を確認するだけだ。1ページくらいはちゃんと読む。あとは筋を確認するため飛ばし読みである。ここは重要そうだと思ったらそこだけちゃんと読んだりもする。 もし、飛ばし読みした後で、誰かが何かを言うのを聞いて、おや見落としたかなと思うことがあったら、またそこ

    私の本の読み方  - jun-jun1965の日記
    kanimaster
    kanimaster 2010/09/25
    「厄介なのは、50pを過ぎたあたりから面白くなる小説で、これはめったにないが、だいたい著者名と、顔つきで分かる(顔つきというのは小説の、である)。」 これはわかる。