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ブックマーク / azumy.hatenablog.com (48)

  • 「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    タイトルは、よく、子ども叱るときにこう言っちゃいけないだろ、と言われる典型例の1つ。おじちゃんでなくても、おばちゃん、お兄さん、お姉さん、だれでもよいのだが。 よその人が叱るって言うんじゃなくてちゃんと親が自分自身で叱れよ、とか、よその人に叱られるからじゃなくて、どうしてそういうことをしたらいけないのか、ちゃんと親が説明しろよ、とか、子どもの躾に関係ない他人を巻き込むなとか、そういう文脈で否定されるものだ。 長らく自分もそう思っていたんだけれど、いざ子どもを叱る立場になってみると、どうしてもこの言い方を使いたくなるときもやっぱりある、ということがしみじみ分かってきた。 小さな乳幼児のうちはともかく、少し大きくなってきて6歳前後になると、叱る内容が複若干複雑になってくる。「危険だからだめ」「汚いからだめ」といった直感的に分かりやすいことだけでなく、「周りに迷惑だからだめ」「他の人が困るからだ

    「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2009/03/06
     「そこのおじちゃんが、そういうことをするあなたを見て、いやな気持ちがするかもしれないんだよ」(他者の迷惑)と、「あのおじちゃんに怒られちゃうよ」(他者による懲罰)は別のものだと思う。
  • 一度やろうと思い立ったがまだ勇気がなくてやれずにいること - 深く考えないで捨てるように書く、また

    一度やろうと思い立ったがまだ勇気がなくてやれずにいること。 家族で外に行って、席がいっぱいで待ちがあるとき、ウェイティングの「○○様 △名」と書き込むところに「ゴンザレス」と書くこと。 「4名でお待ちのゴンザレス様〜」と呼ばれるのが夢だが、まだやれていない。

    一度やろうと思い立ったがまだ勇気がなくてやれずにいること - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • カフェエプロンの存在意義 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    家庭におけるカフェエプロンの存在意義がよくわからない。 自分で料理や洗い物をしていると、汚れるのはたいてい胸あたりで、調理台より下はそうそう汚れない。なので、あえて胸当てがないカフェエプロンを使う理由はないのだけど(そもそも胸当てのあるエプロンも使ってないけど)、意外とカフェエプロンを家庭向きに売っているところがあるんだよね。ということは、需要があるということなんだろうなあ。 確かに、お客様をよんだときなどなら、カフェエプロンならつけたまま台所を出てもさほどおかしくないので、ファッションとしてならわからんでもないけど。普段遣いとしてはどうなんだろう。 幼稚園の手作り品バザーでも、カフェエプロンを多く置いていて、けっこう売れてる。胸当てのあるエプロンはあまり置いていない。これは作る側の都合もあるだろうが。形的にも布の量的にも、胸当てがないほうが安く作れるし作るのが楽だからね。 もしかして、世

    カフェエプロンの存在意義 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2009/01/30
    確かに上のほうが汚れますね。
  • 自分が中年女になって気がついた - 深く考えないで捨てるように書く、また

    子どものころ、若かったころ、自分の目に映る母の姿は、なんとも保守的に見えた。 私はを読むのが大好きだったし、父はよくを読んでいたけど、母はほとんど読まなかった。読むのは、婦人雑誌や料理レシピくらい。それも、自分が思春期になるころにはほとんど読まなかった。 私には読書を薦めるようなことを言うので、「お母さんは読まないの?」と訊くと、「ちょっと読むともう目がチカチカして、頭痛がしちゃう」といつも答えるのだった。 また、母は私に比べると、漢字やちょっと凝った言い回しをあまり知らなかった。テレビのクイズ番組などを見ながら、「あー全然わかんないー、azumyはよく分かるわねぇ」と言っていた。雑学知識も、私のほうがよく知っていた。 母は生まれてから今に至るまで給料をもらう仕事をしたことがなく、ずっと専業主婦だった。何かにつけ「私は分からないわ」「私はダメだわ」「あなたはすごいわねぇ」と言い、

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  • ブログ記事とコメントの一例 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ブログの記事にと子どもが一緒に遊んでいる写真を載せて「ねぇ、かわいいでしょう」と一言書いたとする。 これに反応して、「自分もかわいいと感じた」という主旨のコメントを書くとする。 いろいろな書き方はあるが、骨子としてはこんな感じかな。 「うわあ、ほんとかわいいねぇ」 「うん、この(子ども)かわいいね」 「かわいいって、のほう? 子どものほう?」 1.は、ディスコミュニケーションがある可能性がある。記事の筆者が何をかわいいと感じたのか、記事だけからでは分からない。だが、何かをかわいいと感じて記事を書いたことは確かなのだから、筆者の内心には「○○がかわいい」の「○○」は明確に存在しているはずだ。しかし、コメントを書く側は、その○○がいったい何なのか、なのか子どもなのか、分からずに同意していることになる。そして、筆者の側は、コメントを書いた人が、「○○」が何なのか分からないにも関わらず同意

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  • 「育自」という言葉 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    「『育児』は『育自』」という言葉が嫌いだ。 子どもを育てることによって、自分自身もまた変わって成長してゆくものである、という主旨は諸手を挙げて賛同する、というか、全くその通りだと思っている。 が、「育自」という字面が嫌いなのである。 「育○」という単語において、「育」は「(自然に)育つ」という自動詞ではなく、「(対象を)育てる」という他動詞として働くことが多い。例えば、「育児」以外にも、「育種」「育毛」「育英」など。 このため、「育自」という単語を見ると、とっさに「自分を育てる」と読んでしまうのだ。 ここで、私は引っかかってしまう。育てるのは、誰? 普通に考えると、育てるのは自分自身だろう。「子どもに育てられる」という言い方もあるが、これは現実には、子どもとの関わりや子育てという行為を通じて自ら成長する、ということであり、子どもが親の世話をしたり導きをしたり、ということではないので、あくま

    「育自」という言葉 - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 自分の告別式で流したい曲 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    こんなことをふと思ったのは、あるところで、自分の告別式にどんな曲を流したいか? という話題があったことたらだ。生前お別れ会ではなく、一般的な告別式での話だ。 自分は棺桶の中にいるのだから、もちろん、その曲を聴くことはできない。曲を流すのは、参列者のためだ。まあ、故人は生前、自分の告別式ではこの曲を流したいと常々言っておりました……とアナウンスしてもらえば、自分(故人)の主張を伝えるという意味もあるんだが、その場の様子を窺えない以上、やはり結婚式でどんな曲を流したいか、とはちょっと違う意味合いかなぁという気はする。 告別式で故人が選んだ曲を流すのは、故人の死生観を表現する、という意味合いが強くなる。私は死について、死による別れについてこう感じています、というような。曲の選び方によっては、私(故人)は死に対して恐怖は感じていなかったよ、とか、私は死んでもみなさんのそばにいるよ、とか、私は死んだ

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  • いつか言わなければならないかもしれないこと - 深く考えないで捨てるように書く、また

    いつか、どこかで、身近な誰かに言わなければならないかもしれないこと。 もしも、身近な人や親しい人にどうしても「死ね」と言いたくなったら、相手に面と向かっては言うな。ネットにもメールにも絶対に書くな。相手の耳に入る可能性のあるところ、人を介して伝わる可能性のあるところでは絶対に口にするな。 心の中で「お前なんか死ね」と叫ぶのは許される。何度でも。自分の部屋に置いてあって誰にも見せない日記帳になら「あんなやつ死ねばいい」と書いてもいい。いくらでも。 生きていけば、思わず、お前なんか死ね、私の前から消えろ、と叫びたくなる時があるかもしれない。そう思ってしまうこと自体は、仕方ないんだ。そう思ってはいけない、と自分を律することができればいいけれど、できない時もあるかもしれない。 そんな時は、必ず、相手の目に耳に触れるところには表すな。 相手を攻撃したいだけなら、もっと他にいくらでも効果的な言葉はある

    いつか言わなければならないかもしれないこと - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 思考停止とは思考を停止すること - 深く考えないで捨てるように書く、また

    思考を停止する、と、思考を終了する、は同義語ではない。 一旦停止して、また動き出して、赤信号にあえば停止して、青になったらまた動き出して。 走り続けていればやっぱり息切れしたりエネルギー切れしたりするので、休憩して、また走り出して。 思考停止したっていい、またいつか動き出せる時がくる。完全に動けなくなる前に生物的な死が先にくるだろう。

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  • 子どもの「なぜ」と大人の「何故」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    suVeneのあれ: 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 こちらを読んで、ふと思ったこと。 子どもはやたらに「なぜ?」「どうして?」と言う。 子どもにとっては、世の中にはどうしてだか、なぜだか分からないことがたくさんあって、それを知りたいと思うからだ。それは他人の心理や行動に対しても同じことで、「どうしてお母さんはこう言ったの?」「どうしてお父さんはそうするの?」ということをあまりタブー感なく言う。 やがて、いろいろなことを学習して、ものごとの仕組みや理由、からくりが分かってくると、「なぜ?」「どうして?」が少なくなる。一つには、分からないこと自体、身近な範囲では少なくなってくるということ。もう一つは、自分がすでに知っていること、分かっていることを材料にして、今分からないことを推察したり考察したりして、自ら「分かる」ことができるようになることがあるのだろう。 と同時に、周囲の

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  • 同じ文章なのに - 深く考えないで捨てるように書く、また

    同じ文章のはずなのに、しばらく市販のを集中的に読んでいると、ネットにある文章の文脈が読み取れなくなっている。 また、ネットの文章ばかり読んでいると、久しぶりにを読んだときに、なぜか引っかかる。読みづらく、読み取りづらく感じる。 普段は気がつかないけれど、これらはどこか異質なものなのだろうか。 そして、を集中的に読んだあとは、しばらくネットに書き付ける自分の言葉も出なくなる。というインプットがあるはずなのに、アウトプットにつながらない。 書評をたくさん書いている人もいるので、そうでない人もたくさんいるのだとはわかっているけれど、どうも自分の中では、を読むときとネットで文章を読むときとでは、使っている脳の分野が違うらしい。

    同じ文章なのに - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2008/03/25
    ネットの文章は圧倒的に短いんですよ。
  • 娘にある言葉を教えた話 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    先日、衝撃的なことが判明した。 6歳の娘は、「きんたま」という言葉を知らなかった。 気がついたきっかけは、ポケモンだ。ゲームポケモンには「きんのたま」というアイテムが出てくる。言葉通りのもので、店に売ると高く売れるよ、というただそれだけのアイテムだ。 私はスレた大人なので、別に金の円盤とか宝石とかでもなんでもいいのに、なんでよりによってきんのたまなんだろう、と思ってしまうわけだが、娘はいっかな気にすることもなく、きんのたま、きんのたまと口にする。女の子がそんな言葉を大声で連呼するもんじゃないよ、とこれまたスレたお母さんは思うのだが、はっ、もしかして娘はそれは女の子が大声で連呼すべきではないニュアンスの言葉だ、ということに気がついてないのではないか、と、これは私のほうが気がついたのだった。 そこで私は機会をみつけて「ねーねー、娘、あんた『きんたま』ってなんだか知ってる?」と聞いてみた。案の

    娘にある言葉を教えた話 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2008/03/05
    たんたんたぬきの
  • ほっこり、さっぱり - 深く考えないで捨てるように書く、また

    しばらく前に「ほっこり」という言葉が苦手、という話が発言小町であった。 ほっこりが苦手 : 生活・身近な話題 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 個人的には「ほっこり」自体は嫌いではないけれど、使う場面によっては強い違和感を覚えるときがある。 例えば、単に「ほっこりが好き」とか、そういう話なら別にどうということはない。しかし、「ほっこり」に妙な付加価値をつけているような文脈だと気になる。「ほっこりっていいでしょ」「ほっこりだから素敵でしょ」という感じの。 妙な付加価値をつけるための造語、あるいは以前からある言葉に対して別の意味をつけるやり方、というのは、往々にして、あまり評価されていないものに対してその言葉をあてはめることで、実は評価されるものなんだよ、という価値の逆転を意識している場合があるように感じるのだ。 「ほっこり」については、私から見ると、野暮ったカワイイ

    ほっこり、さっぱり - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2008/02/29
    「あっさり煮」、「さっぱり炒め」はよく見かけるけど、想像がつかない。/↓「炊いたん」は関西弁なので堪忍してください。
  • 「空気読めない」の例を考えてみた - 深く考えないで捨てるように書く、また

    非常に大雑把で乱暴かつ恣意的な設定だが。 6人いる。 お腹が減ったので、今から6人でなにかべにいこうと考えている。 うち3人(A、B、Cとする)は、ラーメンべたい。あとの3人(D、E、F)はハンバーガーがべたい。しかし、各人ともすごくべたいわけではなく、なんとなくべたい、程度。 A「おう、何う?」 B「なんかがっつりいたいなぁ、濃いーもの」 D「んじゃマック行くか?」 B「おいおい、ふつー『がっつり』と言ったらマックじゃないだろ? お前KYだなぁ」 D「えっ、そーなのか。がっつりってマックじゃない?」 B「がっつりってったらラーメンだろ常識的に考えて」 D「あーそーかー」 A「んでなにうの、ラーメン?」 C「俺ラーメン賛成」 E「俺もラーメンでいいよ別に」 F「んじゃ俺もいいよ」 A「んじゃラーメンね」 というわけで、みんなでラーメンべに行く。 このケースについて、以

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  • 子どもに頭を占拠される - 深く考えないで捨てるように書く、また

    中学・高校時代の友人と仲間うちのMLを作っており、そこで互いに近況の話だの、お祝いごとの話だのをしている。MLに移行する前は掲示板を使っていた。 初期の話だが、当時私は結婚したばかりでまだ子どもがなかった。30歳すぎくらいだ。そのころ掲示板に出入りしていたメンバーは、半分くらいが結婚して子どもがあり、あとの半分は独身だった。ちなみに全員女性。結婚したけど子どもがいない、という者がいないのは、全くの偶々だ。 近況報告といっても、普段の暮らしでそんなに報告するような話もなく、掲示板の進行は良く言えば極めてまったり、どっちかというとほとんど過疎であった。しかし、時に誰かが書き込むと、それに呼応するようにレスがついたり、私は今こうだよ、と別の方面から近況報告がある、といった感じ。もともと、みんなどうしてるかな、書きたい時に適当に書けばいいよ、というゆるい使い方なので、それでなんの問題もない。 ただ

    子どもに頭を占拠される - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2008/01/04
    そういうのって、ライフステージなんじゃないでしょうか。(一時的な)
  • 今年もおしまい - 深く考えないで捨てるように書く、また

    年末年始は否応なしにリア充モードである。 こういう時は頭が働かない。身体が動いている時はだいたい頭が働かない。働いているとしても、身体をどう動かすかに集中しているので、頭の中だけでぐるぐる動かすような思考に及ばない。人間の頭はさほど器用にはできてないらしい。 また、周りに人がいる時は頭が働かない。働いているとしても、周囲の人と話したりやりとりをしたりすることに集中しているので、頭の中だけで(以下略)まあ、人間の頭は全然器用にできてない。 こういうものは自然な優先順位があって、身体を動かしている時はそちらが優先度が高く、他人とリアルタイムでコミュニケーションしている時はその優先度がぐんと高くなる。大抵、思索という奴は優先度が一番低いほうになる。思索は後回しにしてもあまり困ったことにならないからだ。身体を動かしている時に他ごとを考えていると怪我をしたり失敗をしたりするし、他人とリアルタイムでや

    今年もおしまい - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2007/12/31
    「リア充モード」
  • 騙されスキル - 深く考えないで捨てるように書く、また

    人をうまく騙し切るには、騙す側の騙しスキルだけでなく、騙される側の騙されスキルが重要な要素になる。 とことん疑い深い人と、信用しやすい人と、どちらにプラセボがよく効くか。 信用できる医師からもらったプラセボと、藪医者でこの人からもらう薬は効いた試しがないと思う医師からもらったプラセボと、どちらがよく効くか。 だから、うまいこと騙し切れた、と感じたときは、相手がうまく騙されるように協力してくれたのではないか、相手は自分に騙されることを望んではいなかったか、相手は騙されることで事態をより良く乗り切ることができると判断したのではないか。 騙し切ったと思った自分が、実は相手の手のひらの上にいるんじゃないのか。 そういう見方をすることも、場合によって大事かもしれない。

    騙されスキル - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 例えば、食べて幸せな気分になる場合 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    おいしいものべて幸せな気分になる、というのは、まあよくある話。 特別そううまくもないものをべて幸せな気分になる、というのは、そういう人もいるしそうでない人もいて、どっちがいいとか悪いとかいう話では全然ない。が、とりあえず、そううまくもないものをべて幸せな気分になれる人は、そううまくもないものをべても幸せな気分になれない人と比べると、幸せな気分になれるチャンスは多いぶん、よく多くの幸せな気分を得ることができるだろう、とはいえるかもしれない。 もうどうにもまずいものをべて幸せな気分になる、というのは、これはなかなかに難しい。技術次第ではどうにかなる。例えば「こんなまずいものを知るチャンスを得た私は幸せものだ」とか「これほどまずいものをべた経験のある私なら、大抵のものをおいしく感じることができるから、結果的にはきっと幸せなんだ」とか。 でもまあ、そこまで技術を磨いてまで幸せな気分を得

    例えば、食べて幸せな気分になる場合 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2007/12/11
    僕はおいしいコロッケを食べて、悲しくなって泣いてしまったことがあります。
  • 早くおばさんになりたかった - 深く考えないで捨てるように書く、また

    http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071029/1193662554(主にコメント欄) http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20071030/1193745937 こちらを読んで、つらつらと。主に自分語り。 以前、ここでこんな記事を書いたことがある。 「女らしくしたくない」女のとる、もう一つの道 - 深く考えないで捨てるように書く 私は10代の頃から、早く「おばさん」になりたいと思っていた。 「おばさん」になれば、女として競わなくてすむから、と思っていた。 10代女子は、ただ10代女子というだけで、自分の望むと望まざるとに関わらず、女として評価を受ける場に置かれる。容姿のことだけでなく、性格の傾向やいわゆる「女らしさ」、見合いの釣書に書かれるようなこと(家庭的だのなんだの)に対して。これから生殖適齢期に向かう生物としては当然のことで

    早くおばさんになりたかった - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2007/10/31
    若さにしがみつく生き方はしたくないと思う。アンチエイジングが嫌いです。
  • 違う人間≠敵対する人間 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    私とあなたは違う人間。あなたと私は違う人間。私と他人は違う人間。 これは当たり前といえば当たり前なのだけど、これを安定して受け入れるためには、それなりの基盤が必要なんだろうと思う。 言うなれば、違う人間=敵対する人間、ではない、という認識。 この認識は双方向ある。一方向は、自分と異なる考え方、感じ方をする人に対して、それは違ってる、よくない、だめだ、と攻撃する必要は必ずしもない、ということ。*1 もう一方向はその反対。自分と異なる考えや感じ方をもつ人はすべて、常に、自分を攻撃してくるというわけではない、ということ。 自分が何か意見を述べたとき、「自分はそうは思わない。かくかくしかじかと思う」と言われたとする。「ああ、そうか、あなたはそう思うんですね。私と違いますね」と返す。 なんらかの結論を出さねばならない議論のように意見のすり合わせを行う必要がない場合は、これで済んでしまうはずなのだが、

    違う人間≠敵対する人間 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    kanimaster
    kanimaster 2007/10/03
    闘争モデルというのを思い出した。