伊牟田 尚平(いむだ しょうへい)は、江戸時代末期(幕末)の薩摩藩重臣の家臣(陪々臣)。 生涯[編集] 天保3年(1832年)5月、薩摩藩喜入郷の領主・肝付兼善の家臣・伊牟田倉左衛門の息子として生まれた[2][3][4]。 15歳の時に鹿児島城下に出て、島津斉彬の侍医・東郷泰玄に医学を学び、長崎で蘭学を学ぶ[2][3]。安政元年(1854年)に江戸に出て、塩谷宕陰や安井息軒らに儒学を学び、大山綱良・美玉三平・高崎五六・伊地知正治らの薩摩藩士と往来し、諸藩の有志と交流し、国事を議した[1][2]。安政3年(1856年)、肝付兼善が藩命で江戸に赴いた際、伊牟田が諸藩の有志と交流しているのを見て、幕府からの嫌疑を受けることを恐れ、伊牟田を帰藩させた[5]。安政4年(1857年)に脱藩し[3]、大坂や京都で田中河内介・桜任蔵の勤王運動に参加する[2]。安政5年(1858年)、安政の大獄が起こると、