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ブックマーク / bokyakusanjin.seesaa.net (37)

  • 人文学振興の委員会記録: 忘却散人ブログ

    文科省の「学術研究推進部会・人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第1回) 議事録」が載せているWEBサイトを発見。文部省での委員会が完全再現されています。和リテラシーについての議論。中野三敏先生がゲストとして呼ばれています。座長は伊井春樹先生。非常に興味深い議論が行われているし、猪口孝氏などは、エール(日文学界への叱咤)を送ってくれているようで。興味のある方は一読を。 我々はいつも「文科省は理解がない」とか、「世間は理解がない」とかいっているけれど、案外マンパワーの問題が最大なのかもしれない、と考えさせられますね。みなさんの感想は如何。

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    karpa 2009/02/08
    > 我々はいつも「文科省は理解がない」とか、「世間は理解がない」とかいっているけれど、案外マンパワーの問題が最大なのかもしれない、と考えさせられますね
  • 『語文』91輯の特集: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 『語文』91輯(大阪大学国語国文学会、2008年12月)が刊行されました。特集として共同研究「会話文と地の文に関する通時的・多角的研究とその展開」が組まれています。 大学院生たちが、文学・語学の壁を取り払って、共同研究を企画し、何度かの研究会を重ねて、学会の場でワークショップを開催したのですが(2008年1月)、その時の報告・発表を元にした原稿5と、 その「由来」1および傍聴記2です。 私はそのうちの傍聴記を書きました(「公開ワークショップ傍聴記」)。短い文章です。

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    karpa 2008/12/12
    加藤昌嘉氏の「平安和文における鉤括弧と異文」
  • 続「字姿」: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 二つまえのエントリーの続き。 「字姿」を様式のひとつとして考えることは十分可能です。浄瑠璃などの正、黄表紙のひらがなの多い小さな字、篤胤の楷書に近いやや丸っこい字…。これは書道や書(芸術)というよりも、「字姿」史の問題でしょうか。 文学としての書というのは何か。書が文学的営為と関わる要素は、色紙・短冊などへの揮ごうの場合はもちろん、単に紙に書く場合も、墨の濃淡、字詰め、くずし方、連綿、散らし書き、改行、仮名字母などいろいろとあります。 その場合は、様式ではなく、個人の

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    karpa 2008/11/16
  • 書道史的視座による江戸文学: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 江戸時代のは外見である程度その内容が推せるというのは、長沢規矩也の言としてわが師中野三敏『江戸の板』にも引かれるところ、これらは、まがりなりにも江戸時代のを扱って三十年ほどになる私などにも、少しは感覚がわかるようになってきました。 もちろん、そのように何度も教えられてきたからだともいえるのですが、それなりに(ほんとにそれなりですが)を見る量が累積しての当然の結果でもありましょう。 また、江戸時代の文芸の研究者であれば、誰もがそのように思っているはずであるわけですが

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    karpa 2008/11/15
    > 「江戸文学」39号所載、岩坪充雄「「書の視座」による江戸史料の再考」 / 「書(芸術)」といふかきかたは違和感がありますが
  • 芭蕉二つの顔: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 田中善信氏『芭蕉二つの顔』。十年前に講談社選書メチエの1冊として刊行。絶版となっていましたが、2008年9月、講談社学術文庫として再び刊行されています。文庫版あとがきを読むと、書は新聞の読書欄をはじめとして一般読者には非常に反響が大きかったけれども、俳文学界からは反応がなかったということが書かれていました。 田中氏といえば思い出すことがあります。私がまだ学生の、随分昔の話ながら、九州福岡の柳門舎(中村幸彦先生の門下という意味。先生の号は痩柳)が『江戸時代文学誌』という研

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    karpa 2008/11/11
    > 「研究書」ではたぶんないのですから、研究界からコメントがなくても構わないのではないのか
  • 古典籍取扱いの講習: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 昨日、勤務先の附属図書館で、古典籍取扱講習会が行われました。 図書館員相手のものですが、巻子・掛幅などの扱いをはじめとする古典籍全般の取扱についての講習ということで、こういう講習をきちんと受けた経験もないので、覗きに行きました。 最初の1時間がレクチャーで、そのあとが実習。全部で2時間20分。 主催者も、参加者は多くて20人、場合によっては数人だろうと見ていたようですが、集まったのは70人という大盛況で、手とり足とりの予定の講習が、大変なことになりました。 講師は国立民

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    karpa 2008/10/29
    > 以前、和書にバーコード付きのシールをぺたぺた貼る作業を図書館内で職員の方がしていたのをみて、思わず「やめてください」と言ったことがあります > 電子化という錦の御旗の下
  • 『日本教育史研究』27号(後日ばなし): 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 こちらのエントリで言及した拙稿ですが、実をいうと、最初は中野三敏先生のところに、誰か適当な方を紹介いただけないかという打診が編集部からあったようです。 というよりも、当は中野先生に書いてほしかったようですが、先生は1度、該雑誌に論評を書かれていることもあり、私に機会を与えられたようです。まあ、高野論文には中野先生の『戯作研究』はもちろん引用されていますが、拙論もいくつか引用されてますので。 そういうこともあって、この論評(誰にも差し上げておりませんでしたが)、一応先生に

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    karpa 2008/10/15
    > 近世では文学と教訓は何ら背離するものではないことを、もっと言うべきだということです。
  • 忘却論文: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。

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    karpa 2008/10/04
  • Interdisciplinary: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 先日(13日)、文学部創立60周年記念講演会で、山崎正和氏が、文学部最大の危機は、専門分化が進んでおり、文学部の中でも、隣の先生が何をやっているのかを知らない、わからないということだと話されていました。「文学部は専門店のあつまり」といわれますからね。 しかし、医学や工学やたぶん経済学においてでさえ、どんなに専門分化が進んでも、他分野の人の発表を聞いてわからないということはないということでした。 ほんとうにそうなのかはともかく、たしかに日文学を例にとると、専門分化というの

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    karpa 2008/09/16
  • 国文研イン立川: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 立川の国文学研究資料館。いくのは今回で3回目。 ほとんどの利用者にとっては「遠くなった」という不満があるわけですが、よくなったところもあります(でないと、意味がない)。 それは閲覧室がほぼ2倍の広さになり、かなりのが開架になり、なかでも紙焼がほとんど手にとってみられるようになったということ。 閲覧机にほとんどコンセントが設置されたということ。 それと土曜閲覧の実施。 ということで、土曜の研究打ち合わせのあと、閲覧室で調べものをしましたが、この利点を利用せざるべからずと

    karpa
    karpa 2008/09/07
    > ほとんどの利用者にとっては「遠くなった」という不満があるわけですが、よくなったところもあります
  • 和本教室 第3回: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 『聯珠詩格』を手に書店を出ようとしたら、出口のところに「図書」8月号が積んであったので、1冊持ち帰りました。 中野三敏先生の「和教室」第3回。第2回までの、「悲憤慷慨」の口吻がなくなり、格的に講義の中身に入った感じです。 「和には身分がある」というタイトルです。その中で、「写を主とし、板を従とする評価」について述べられています。 今回、面白かったのは、書物を身分と見立てることで、出版規制の考え方として、写は身分が高いので敬意を表してその領域に踏み込むことはしな

    karpa
    karpa 2008/08/01
    > 、写本は身分が高いので敬意を表してその領域に踏み込むことはしないが、板本は身分が低いので、その分を越えようとしたら、規制するという構図
  • 秩序への回帰: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 京都近世小説研究会では10周年記念として、京都安楽寺において浜田啓介先生の御講演が行われました。非常な盛会で、中野三敏先生はじめ、遠方からも多くの方が駆けつけました。 先生の講演題目は「秩序への回帰―近世小説様式試論」というものです。読の様式のひとつとして「秩序への回帰」という団円を持つというものがある。その型として、許婚譚、若殿放蕩譚、讒言讒構譚など多くの読の実例に基づき、詳細で緻密な解説が行われました。 そして「讒言譚の場」として金平浄瑠璃に言及され、主題は読

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    karpa 2008/07/15
  • 角川ソフィア文庫: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 角川ソフィア文庫の『好色五人女』が刊行されました。谷脇理史氏の訳注です。 ソフィア文庫のスタイル、現代語訳のあとに文と注というスタイルは、往年の教養文庫を思い出しますが、文庫で出す以上、かなりの部数を出すはずなので、この形はたいへんよいと思います。 最初に現代語訳で入って、勉強が進んだら校注文で読むということもできます。 最近はたとえば経済学部の留学生から、江戸時代の古典をよみたいが、文庫でよいテキストはないかという、思わぬ質問を受けたりすることもありますが、なかな

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    karpa 2008/07/15
    > 現代語訳のあとに本文と注というスタイル
  • 白石良夫『かなづかい入門』: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 白石良夫さんの『かなづかい入門―歴史的仮名遣VS現代仮名遣』(平凡社新書、2008年6月)が刊行されています。 白石良夫さんは近世文学研究者で、『江戸時代学芸史論考』(三弥井書店)、『説話のなかの江戸武士たち』(岩波書店)などの著作がありますが、『幕末インテリジェンス』(新潮文庫)で幕末維新史に、 若山牧水の「別離」論で近代短歌論に進出(?)している他、『うひ山ぶみ』の、主観的なコメントを含む、かなり(現在の通念でいえば)変わった注釈をだしたりなど、既存の学問研究に対する

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    karpa 2008/06/20
  • いま、だから、和本: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 岩波書店のPR誌『図書』2008年6月号より、中野三敏先生の連載「和教室(ワホンカウシツ)」が始まりました。第1回は「いま、何故、和か」というものです。「近代以前の日を考える上においては、最も基的な文化のインフラとも言うべき」和が、今や知識人の間でも全く顧みられなくなっていることに危機感を感じられて、警鐘を鳴らされています。 ただ、江戸の評価が五転して、複眼的・立体的な江戸理解が可能になってきた今こそ、和というインフラをもっと活用すべきなのだというご主張です。

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    karpa 2008/06/10
  • 鈴木俊幸氏の方法: 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 鈴木俊幸氏は「韜晦」という言葉の似合う人だった思いますが、このところ自らの研究方法について堂々と語り、いわゆる文学至上主義的研究を断罪するような発言が時どきあるような気がします。『江戸の読書熱』以来でしょうか。たとえば『東北文化研究室紀要』48(2007年3月)の「「普通」のこと―高橋章則報告の尻馬に乗って―」という文章を読む機会がありました。今の文学研究の主流的な方法では、現在の文学的価値観で江戸時代の文芸活動の大部分―普通の人の普通の営為―を切り捨てていると批判してい

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    karpa 2008/05/27
  • 忘却散人ブログ

    わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 科研報告書の季節である。『最盛期読の総合的研究』藤沢毅(研究代表者)、天野聡一、大屋多詠子、菊池庸介、木越俊介、田中則雄、中尾和昇、菱岡憲司、藤川玲満、三宅宏幸というメンバー。読研究を引っ張っている西日の研究者中心の精鋭たちだ。編者名も「西日近世小説研究会編」となっている。 このメンバーは、継続的に読の悉皆調査を目指して、次々に読解題を報告書として刊行してきた。研究プロジェクトの継承は下記の通り。 2012-15 文政期読の基礎的研究 研究代表者 田中則雄

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    karpa 2008/05/27
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