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  • 注意力を有限資源として管理すること - 忘れん坊の外部記憶域

    注意を払う。 この言葉は実に言い得て妙です。注意とは金銭と同様に払い渡しをするものだと認識する必要があります。 ちなみに「注意を払う」を英語で言えば「pay attention」です。異なる言語であっても同様に、注意(attention)は支払う(pay)ものだと理解されています。 つまり注意力とはそれぞれの個人が持つ残高のある有限資源であり、過度に浪費しては不足しますし予算を超えてしまえば適切に注意力を発揮することはできません。金銭と同様にその残高を気にしながら消費すべきものだと言えます。 収支 注意力が金銭と同様に扱えるのであれば、その収支についても同様の考え方を援用できるかもしれません。 例えば金銭の残高を増やすのであれば「収入を増やす」か「支出を減らす」ことが有効です。これを注意力に換言すれば、「注意力の回復量を増やす」「注意力の消費量を減らす」とでも言えるでしょうか。 回復量を増

    注意力を有限資源として管理すること - 忘れん坊の外部記憶域
  • 職業差別と上下を分ける線引きの仕方に関する私見 - 忘れん坊の外部記憶域

    インターネットの一部界隈で職業差別について騒ぎになっていたので、そういった認知や差別に関する私的な見解を整理してみます。 今回の騒ぎの根源はよく見かけるような「ブルーカラーの職業に対する見下し発言」と「男性への統計的差別発言」でしたが、今回は話を単純にするため性差別に関しては取り扱いません。 職業差別の根底 職業差別は古来から現代まで連綿と続いている根深い差別の一つです。昨今では職業差別は悪いことだとした認識が広まりつつありますが、今でも世界中で次のような定型句がある程度にはブルーカラーの仕事を下に見る人がいます。 「ちゃんと勉強しないとマクドナルドで働くことになるぞ」 「勉強しないと、あなたの将来は掃除人よ」 「ちゃんと勉強しないとこういう所で働くことになりますよ」 また、アンチパターンとしてブルーカラーの価値を高く見積もった次のような意見も散見されます。 「学歴がない人が肉体労働に就く

    職業差別と上下を分ける線引きの仕方に関する私見 - 忘れん坊の外部記憶域
  • 教養とは「楽しく生きる」ためにある - 忘れん坊の外部記憶域

    月に一度くらいの頻度で「教養なんて何の意味があるんだ?」と言った言説をインターネットで見かけます。見かける度に教養を話題とした記事を書いているため傷かもしれませんが、また教養について考えを整理してみましょう。 教養とは「知識の種類や量」ではない 言葉の話をするときはまず辞書を引くのが一番です。 辞書によれば教養とは次のような意味を持っています。 学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。 学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。 「―のある人」 教養の説明としてはこれだけでも充分に分かりやすいです。 要するに教養とは「持っている知識の種類」や「知識の量」といったことではなく、学問や知識を学ぶ行為を通して得られる心の豊かさを意味します。

    教養とは「楽しく生きる」ためにある - 忘れん坊の外部記憶域
    katari_mata_katari
    katari_mata_katari 2024/08/31
    これは、と思い、子にも読むようにすすめました。本人曰く、「一番どくんときたのは嫌なことは視点を変えて見るというところ」だそうです。書いていただきありがとうございます。
  • 集団における意思統一の是非 - 忘れん坊の外部記憶域

    だから心の中では住み分けましょう。 意思統一の限界 集団において参加者全員の意志を統一できるか否かは規模に依存します。 サークルや部活動くらいの小集団であればまだ検討の余地もありますが、それですら時に軋轢を生じることもあるでしょう。それが企業や国家の規模ともなれば完全な意思統一は現実的に不可能です。 たしかに構成員の誰もが組織の意志に従うことを是とした状態となれば組織の目的達成に用いることのできるリソースは膨大となるのですから、集団の運営者としては構成員の意思統一を図りたいと思うのも自然なことです。 しかし数多の組織がそれに失敗して崩壊してきました。 その原因は比較的明白です。 第一に、参加者全員の意志統一を図る方法としては「組織の目的に沿った参加者を取捨選択する」かあるいは「参加者を洗脳する」以外にありませんが、前者は規模の拡大ができずに組織の先細りを招き、後者は倫理の面で批判を受けます

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  • 「厳しさ」と「優しさ」、あるいは「甘さ」 - 忘れん坊の外部記憶域

    最近、自分の弱点にまた一つ気付きました。 それは「仕事で女性に攻撃的な態度を取られると脳がバグる」ことです。 というのも、脳内で以下の命題が衝突するためです。 女性には優しくしろと躾けられてきた結果、女性へ攻撃的な態度を取ることを禁忌としている 仕事で舐められると後々ロクな結果にならないため、仕事で喧嘩を売られたら言い値で買う これらの処理が衝突してクラッシュします。「お、舐めとるんか、やったろかい、あ、ちょっと待て相手は女性だやっちゃいかん、ん、いやしかし舐められるのは困る、え、あれ、どっちだ、どうすべきだ、うーん」ってな具合です。 昨年までは現場のおじさん集団に囲まれて仕事をしてきた経験上、舐めた仕事をしてくる相手は100%おじさんだったので処理の矛盾が生じずに済んでいたのですが、社に異動してきて仕事で関わる男女比が変わった結果、困った二律背反に陥っています。 今のところは脳内フロー

    「厳しさ」と「優しさ」、あるいは「甘さ」 - 忘れん坊の外部記憶域
  • 差別の解消に万能薬は存在しない - 忘れん坊の外部記憶域

    差別の質は”違う”ことにある。 貴方と私は”違う”から差別が生まれる。 これは一般論として妥当であり、納得感のある言葉だと思います。 自分や自分の所属する集団と異なることを理由に攻撃や排除の形で現れるものを差別と定義するのであれば、違うことこそが差別の根原因だと考えるのは自然なことでしょう。 ただ、では私たちはどうすればいいのでしょう。 差別の解消を謳うこと自体は立派ですし必要なことですが、そのための方法論が無ければ真に差別を解消することはできません。 例えば差別の原因たる”違い”への根対策として、”違い”を無くす、そういったことは現実的かつ効果的でしょうか? 違いを無くすことは不可能 身も蓋もない話ですが、違いを無くすことは不可能です。 SNSなどを見ていれば分かるように、人は他者と識別可能なオンリーワンたる個人としてのアイデンティティを確立したいとした欲求を持っているものであり、

    差別の解消に万能薬は存在しない - 忘れん坊の外部記憶域
    katari_mata_katari
    katari_mata_katari 2024/08/20
    “差別の解消を謳うこと自体は立派ですし必要なことですが、そのための方法論が無ければ真に差別を解消することはできません。”
  • 絶対的平和主義は信念ではなく論理に頼るべきではなかろうか - 忘れん坊の外部記憶域

    あまりにも重いテーマだが、この時期には向き合わねばならないと思う。 平和主義の類型 平和主義(Pacifism)には主に2つの形態があります。 一つはありとあらゆる暴力を否定する絶対的平和主義(absolute pacifism)、もう一つは防衛の範囲に限定して暴力の行使を認める条件付平和主義(conditional pacifism)です。 異なる表現を用いるならば、前者はリベラリズムに基づく非武装中立を理想とし、後者はリアリズムによる抑止や武装防衛を認めています。 私個人としてはどちらかと言えば後者寄りです。少なくとも前者のPacifismとは少し異なる見解を持っています。 私は仕組みやシステムを考えることがお仕事技術畑に生きていますのでもう少し物質的な発想で物事を考えています。 そのため、そもそも戦争を「賛成/反対」で区分することすら得心がいっていないくらいです。戦争はそういったア

    絶対的平和主義は信念ではなく論理に頼るべきではなかろうか - 忘れん坊の外部記憶域
  • 責任感と給料の関係に関する考察 - 忘れん坊の外部記憶域

    「アルバイトは仕事に対して責任なんてない、休みたい時に休んでいいしサボってもいい。最低賃金で雇った労働者に多くを求めるな。仕事への意識を高めて欲しいならもっと給料を払え」的な言説を時々見かけます。 いや、まあ、気持ちは分かります。 要約すれば「もっとお金をくれ」であり、それは多くの人々が持つ素直な欲求です。 ただ、もっともらしく聞こえるもののちょっと論理の建付けが甘いような気がするので、少し自論を述べていきます。 責任感・給料・労働契約 拝金主義や資主義に染まり過ぎると忘れがちなのですが、給料の多寡は仕事への意識とは無関係です。たくさんお給料をもらっていても責任感が全然無い人もいれば、少ないお給料であっても高い責任感を示す人もいます。 そもそも賃金は個人の何かしらを示す絶対的なバロメーター足り得ず、能力と所得は必ずしも相関関係にはありません。稼ぎの多い人が優秀で稼ぎの少ない人は無能だと考

    責任感と給料の関係に関する考察 - 忘れん坊の外部記憶域
  • ステレオタイプ的認知との付き合い方 - 忘れん坊の外部記憶域

    「何を言ったか」が一番重要ではあるものの「誰が言ったか」「どう言ったか」も留意はしないといけない、とした考えを私は度々述べてきました。 それに関連して先ほど思い付いた小話をします。 子どもが「大好きなのはヒマワリの種」と言うのと、おじさんが「大好きなのはヒマワリの種」と言うのでは、明らかに周囲の受け取り方は変わると思います。 そう考えると「誰が言ったか」はやはりどうにも無視できない程度に大きなファクターでしょう。前者であれば「ああ、とっとこハム太郎が好きなのかな?」と思うでしょうが、後者は「なに言ってんだこのおじさん」と周囲がドン引きするかと思います。 いや、まあ、先程頭の中でとっとこハム太郎のテーマソングが唐突に流れたので。 何故か昔聞いたことのある曲が頭の中に出てくる時ってありますよね。 ステレオタイプ的認知は基否定されるべき さて、おじさんが「大好きなのはヒマワリの種」と言った場合

    ステレオタイプ的認知との付き合い方 - 忘れん坊の外部記憶域
    katari_mata_katari
    katari_mata_katari 2024/08/03
    “ステレオタイプを他者へ押し付けることが問題”
  • 理想とは「夢幻の如き」を徹底的に踏み潰すものなり - 忘れん坊の外部記憶域

    世の中には「理想の為ならば犠牲は致し方ない」と考える方がいらっしゃいます。 厭味ったらしい話をしてみますが、そういった人は五族協和や大東亜共栄圏のことはどう思っているのでしょう?あれも民族の協調や国家間の助け合いなどなどお題目として言っていることは理想的で綺麗だったと思います。現実はさておき。 「理想の為ならば犠牲は致し方ない」と考える人があれを肯定するとその理想の末路についても思いを馳せなければならないでしょうし、あれを否定すると「理想の為ならば犠牲は致し方ない」とした理念も同時に否定せねばならないでしょう。あっちは駄目だがこっちの理想は正しいと跳ね除けるのであればダブルスタンダードです。 どうにも、厭味な疑問です。 理想と夢想 そもそも「理想」とは何かをもっと明確に定義することから始めましょう。 理想とは辞書的に言えば「考えられるうちで最高の状態のこと」を意味する言葉です。また「理性に

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  • 他者の好みを直球で否定する人の心理を理解したい - 忘れん坊の外部記憶域

    直球で否定する人を否定したいわけではないことを上手く言葉で表現するのは難しい。 個人的に、理解が難しい心理の上位ランカー 世の中には他者が好むものをストレートに否定する人がいます。 もちろん人それぞれ嫌いなものはあります、それは当たり前のことです。 ただ、それをいちいち口に出す理由を掴みかねています。 何かしらを楽しんでいるや何かしらを好んでいる人に対して自分はそれが嫌いだと告げたり、わざわざSNSで自身の嫌いなものを発表する、その仕草がどうにも私の理解の範疇外にあると思っています。 私はそもそもあまり好き嫌いをしない性格ですが、一応程度の心掛けとして「嫌い」をなるべく公言しないようにしています。このブログでも注意しており、あえて強く公言したものはせいぜい「袖」と「無駄な会議」くらいでしょう。 このブログでは様々な事柄に対して「私の好みではない」と評する表現が頻出しますが、「嫌い」を用いな

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  • 多数決に関する2つの考え方~対立と協力 - 忘れん坊の外部記憶域

    「僕は自民党に投票していないので今の政治に責任は無い、僕の選んだ代表じゃない」 先日、後輩と話していて言われた言葉です。まあ言いたいことは分かるのですが、これはちょっと民主主義や多数決の考え方として望ましくありません。 今回は多数決の考え方について考察していきます。 多数決は対決ではなく代表の選出であるべき 特に政治家の方に多いのですが、選挙や多数決を闘争だと考えている方がいます。しかしながらこの考え方は集団の信頼関係を損ないかねません。対立した意見をぶつけ合うものだと多数決を捉えることは望ましくないのです。 多数決を対決のイメージだとした場合は次のような図になります。それぞれの意見を別々の集合であるとみなして、それらの大小を比較することが多数決であると考えている状態です。 このような対立視点で多数決を見てしまうと多数決後の団結が起こり得ず、別々の集団での勝敗が決したのだから勝った集団のウ

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  • 全部足して「民意」 - 忘れん坊の外部記憶域

    選挙が終わると、各所で「民意」を用いた言説を見かけるようになります。 ただ、「民意」はそこまで安易に用いていいような言葉ではなく、むしろ個人的にこの言葉は取り扱い注意だと考えています。 人々を区切ることの危険性 選挙で多数派となった側は「これが民意だ」と述べ、選挙で少数派となった側は「民意が反映されていない」と語ることが常です。 とはいえ民意とは『人々の意思や考え』であり、極めて総体的なものです。多数派となった候補者に投票した人、少数派となった候補者に投票した人、そもそも投票をしなかった人、それら全ての合計が民意であり、特定の勢力が切り取って自勢力の都合が良いように用いていいような類の言葉ではありません。 そもそも選挙や多数決とは集団内での代表意見や代表者の選定行為です。決して集団を区分して勝敗を決めるようなものではありません。その点を忘れてはならず、選挙や多数決をするのであれば同じ集団と

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  • 仏教の三観を知っていると生きることが気楽になるかもしれない - 忘れん坊の外部記憶域

    唐突に仏教の話をします。 と始めると日ではどうしても「宗教の話はノーサンキュー」となりがちなので難しいところですが、そもそも仏教が宗教かと言えば必ずしもそうとは言えません。宗教か否かを『教条主義(ドグマティズム)であるか否か』と雑に定義すれば、仏教には極めて宗教的な派閥もあれば哲学的な思考に傾倒している派閥もあり実に多種多様です。 例えば釈迦の教えの基礎である中道・八正道・四諦あたりは教義というよりもむしろ哲学的な考え方の集合であり、これらを軸とした初期仏教や一部の部派仏教は釈迦の教えの分析や批判、拡張や修正などを行っていた点で非教条主義であり、そこまで宗教的ではありません。彼らはある種の学問集団であり、数学や哲学を重視していた古代ギリシアのピタゴラス教団に近いと言えるかもしれません。もちろんこれはかなり雑で不正確な峻別ではありますが。 対して大乗仏教の一部などは長い歴史をかけて磨かれて

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  • 否定を信条のコアとすることの問題点 - 忘れん坊の外部記憶域

    私たちが暮らす民主主義の国では精神の自由が保障されており、他者の権利を侵害しない範囲において自由な内心を持つことができます。よって個々人がどのような信条・理念・思想を持っていようとそれは個人の自由です。 ただ、個人的には否定を信条のコアに据え置くことをあまり推奨しません。それはあまり健全な方向へは向かないのではないかと考えています。 反〇〇の弊害 何かに反対することを否定したいわけではありません。社会情勢や倫理観に基づいて否定されるべき物事は無数に存在していますので、対抗勢力としてのアンチパターンは世の中に不可欠です。 ただ、『反〇〇』のような形の否定を手段ではなく信条の核となる目的に据えた場合、それはあまり望ましい結果を招かないと考えています。 まず第一に、否定は易きに流れるものです。 率直な話、反対することはとても容易です。なにせゼロからの理論構築が不要であり、他者が構築した土台に立脚

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  • 意思決定と責任を分離してはならない - 忘れん坊の外部記憶域

    今回は愚痴っぽい内容なので、いっそのことぶっきらぼうな文体を目指してみます。 意思決定と責任の連動 仕事には分掌がある。丁寧に言えば職務分掌やらそんな感じの、各人の役割と権限を明確にした仕組みを意味する言葉だ。 難しそうな言葉に聞こえるかもしれないが、つまりは役割分担の気取った言い回しだと思ってもらえればいい。 組織の運営者は誰が何をやってどこに責任があるかの役割分担をはっきりしておかなきゃならない。それが不明瞭な組織はどいつもこいつも責任回避や責任の押し付け合いに終始して保身に走ることが行動の基原則になっちまう。 そりゃあ大抵の奴は責任を負わずに旨い汁を吸いたいと思うもんだが、それじゃあ組織はまともに動かねえ。事前にカッチリキッチリ誰が何の責任を負うか決めておく必要がある。 ところが、分掌が明確だというのに何故か他人に意思決定を任せようとする奴が世の中にはいる。自分の職務権限の範囲にお

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  • 人を動かす梃子への理解と忌避感 - 忘れん坊の外部記憶域

    今年度から仕事の回し方が大きく変わったのでそれについて思うところを記録してみます。 仕事への向き合い方や考え方は年齢や立場によって大きく変わるものですので、今回の記事も未来の私や別の立場の人からすればまた異論があるはずです。それでもあえて今思っていることをまとめることには意味があると考えます。 仕事のやり方の変化 事業所で設計屋をやっていた頃は、基的に仕事は頼まれる側でした。 もちろん他所へ仕事を頼む機会はたくさんありましたが、どちらかと言えば頼まれることが多くなります。市場にマッチした新しい製品の設計なり、製造上のトラブルに対する対処なり、市場トラブルの分析なり、生じた事態や要求への対処が主な仕事であり、案件の流れ着く先、プロセス中の停留所として設計屋は存在しています。 頼まれる側からすれば仕事は受動かつ主体です。仕事自体は他所から投げられるため受動的で、しかしどう受け取るか、どう動く

    人を動かす梃子への理解と忌避感 - 忘れん坊の外部記憶域
  • ホットな時事問題を扱わない理由に関する言及 - 忘れん坊の外部記憶域

    あまりリアルタイムの時事ネタを扱わないことに対する個人的な見解。 方針的な何か 当ブログは真に雑記的なブログでございまして、それは別に意図して狙っているわけではなくただただ徒然なるままに思い付いたことをのべつ幕無し語り続けている影響でごちゃごちゃしているだけではございますが、そもそも文体すら自由気ままに安定させていない当ブログにおいて一貫性なんてなんのその、時には特許明細書のように延々と文章を繋げて句点を用いないこのような読み難い文章を書くことも厭わないのが私です。 読みにくいし書きにくいから止めましょう。 そんなわけで、社会派を気取るつもりは一ミリもない割に社会問題を取り扱うこともある私ですが、それでもホットな時事問題は意識的に避けていたりします。 ホットでなければ時事問題ではないのではないか?と思われるかもしれません。 しかし時事とは「近年起きた事象」に関してであり、近年とは「ここ数年

    ホットな時事問題を扱わない理由に関する言及 - 忘れん坊の外部記憶域
  • 失敗を批難する人は、ただ足を引っ張っているだけ - 忘れん坊の外部記憶域

    たまには珍しく、少し直接的な苦言を。 失敗は必ず生じる上、目にもつきやすい 新しいモノやコトにトラブルは付きものです。特に複雑系の大きなシステムを変える時には失敗せずに順調に置き換わることのほうがレアケースだと言えます。 なぜならば私たちは預言者でも予知能力者でもない以上、ありとあらゆる外乱を予測し切ることはできませんし全てのリソースを最適に活用し切ることも不可能なためです。想定外のトラブルはどこからしらで必ず起こり、意図せぬ何かしらでリソースの不足や過剰が絶対に生じます。 上手くいったプロジェクトとは失敗やトラブルが生じなかったのではなく、失敗やトラブルに対処するだけのリソースがあったために上手くいきます。 また、人々の認知の問題として『現状の事柄』よりも『新しい事柄』のほうが失敗の印象が強くなります。 なにせ現状の事柄とはたとえ不合理で不平等で不自由で導入時に失敗があったとしても「今は

    失敗を批難する人は、ただ足を引っ張っているだけ - 忘れん坊の外部記憶域
  • 無知への謙虚さ - 忘れん坊の外部記憶域

    私たちは日々様々な情報に触れています。 しかしそれらは世界に存在している情報量からすれば極めて僅少なものに過ぎません。 よって私たちは知っている情報を基に物事を判断することよりも知らない情報があることを前提として思考をしたほうが適切な場合が多々あります。 私たちはどれだけ知っている? 一例として警察の話をしましょう。 全国ニュースで警察の不祥事が時々報道される度、まるで日の警察はダメな存在だとする言説をよく見かけることになります。 これは典型的な誤認です。 私たちはその不祥事に関係した警察官の情報をニュースによって入手しますが、約30万人が所属する巨大組織である警察の全貌、そして警察職員の全員を知っているわけではありません。 つまり入手した情報よりも入手していない情報のほうが遥かに膨大であり、膨大な無知領域を無視して組織全体の是非を判定することは論理的に不正確な判断だと言えます。 そもそ

    無知への謙虚さ - 忘れん坊の外部記憶域
    katari_mata_katari
    katari_mata_katari 2024/06/11
    “入手した情報だけで物事を考えるのではなくそれ以外の広大な無知領域が存在することを認識する“