(今回の議論はたぶん、かなり穴があります。ご承知おきを。...ってブログの記事はそもそもそういうものか。) 経済学に権力という概念が全くないわけではないと思うのですが、社会学ほどは目立たない概念でしょう。なぜでしょうか。 このことは、権力の定義を考えると自ずと見えてくるのではないでしょうか。まず手始めにWikipediaをみてみましょう。 権力(けんりょく、ドイツ語 Macht、英語 power)は、何らかの物理的強制力の保有という裏づけをもって、他者をその意に反してでも服従させるという、支配のための力のことである。権力者とは、そうした権力を独占的に、あるいは他に優越して保有し、それを行使する可能性をもつ者を言う。(権力:Wikipedia) ウェーバー的な定義ですが、日常的定義(人々が権力という言葉でどういった状態を指しているか)としてはこんなもんで十分なんじゃないでしょうか(フーコーの
先日の「パパは何でも知っている」というエッセイで、「矢野は自分のことを専門バカだと思っている」というお話をさせていただきました。専門バカなので、「自分の勉強したことのない分野のことはできる限り話さない」ようにしているのですが、今日はその原則から少しばかり逸脱することにしたいと思います。 それは、現在発売中の雑誌「エコノミスト」に掲載されている伊藤秀史教授(一橋大学)の「ノーベル経済学賞の2氏 市場の枠超え、ガバナンスの仕組み解く」(週刊エコノミスト2009年11月24日号)という記事に感動したからです。 さて、矢野は今まで当blogではノーベル経済学賞についてほとんど話題にしたことがありません。というのはそもそも自分の専門が狭すぎるので、誰がノーベル経済学賞を受賞してもほとんどの場合知りませんし、毎年恒例の発表直前の「今年は誰が受賞するか」という話題にも・・・まあ、あまり興味を持ったことは
昨日紹介したマンキューの主張について、アパラチアン州立大学教授のジョン・ホワイトヘッド(John Whitehead)がブログで異議を唱えている(Economist's View経由)*1。 昨日のエントリから、ホワイトヘッドの批判の対象となっているマンキューの主張を引用すると、以下の通り。 経済的効率性の観点から言えば、炭素排出権の価格は、高いエネルギー価格という形で消費者にそのまま課せられるべきなんだ。消費者はその高価格に基づきエネルギー消費の最適値を決める一方、所得税や給与税の軽減によって補償を受ける。そしてその減税を賄うのは、排出権のオークションから上がった収益ということになる(本当は炭素税の方がいいんだけどね)。 これに対し、ホワイトヘッドは、そうした排出権オークション収入と減税の抱き合わせは完全に間違っている(The twinning [of cap-and-trade auc
社会政策・労働問題研究について歴史的なアプローチで研究しています。ここではそのアイディアやご迷惑にならない範囲で身近な方をご紹介したいと考えています。 そろそろ後期の授業(労働経済論)が始まるので、その下準備をと思い、経済学全般の議論を勉強しなおすことにした。労働経済論というのは厄介な科目で、非常にシンプルに近経・非近経の二つに分ければ、非近経ということになるだろうか。もうちょっと大まかに言えば、制度派といえるだろう。ある意味では何でもありなのだ。最近まではこっちの系統は異端ということになっていた。そういうわけで、数週間前に本屋に行ってみたところ、こんな本があった。 出版元のナカニシヤ出版の紹介文からとりあえず、目次を引っ張ってきた。 <目 次> 日本語版への序文:経済理論の制度主義的転回はあるのか 序章 経済学における制度主義の系譜 I 制度主義の元祖 1.シュモラーとドイツ歴史学派 2
人を正直にするのは高くつくのだ〜メカニズムデザインの考え方 2007年10月27日 経済・ビジネス社会 コメント: トラックバック (0) (これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら) 前回にも触れたが、今年のノーベル経済学賞は、「メカニズムデザイン」という分野を樹立した3人の経済学者ハーウィッツ、マスキン、マイヤーソンに与えられた。経済学に関する連載を持っている身として、この理論がどんなものかを読者に伝える社会的使命が多少はあると思うので、この分野は専門外だけれど、がんばって、これから何回かで解説してみようと思う。 「メカニズムデザイン」という分野が論じようとしているのは、ぶっちゃけていえば、「どうやれば人に何か社会的に見て適切な行動をするインセンティブを与えることができるか」ということだ。例えば、「どうやったら子供に、勉強しているフリではなく、本当に一生懸命に勉強させ
民主党政権になっても、それを支える議員の多くが素人だ。「官僚任せにしない」とは言っているが、本当にそれをやったら、大きな混乱を招くのではないだろうか。無政府状態が続く可能性もある。 今後2年弱で失業率は7%台に 心配しているのは、雇用の問題だ。ただでさえ深刻な状況に陥っている。 最近1年ぐらいで、「失われた10年」に相当するほどの雇用が失われた。完全失業率は6月の速報値で5.4%。これから1年半から、2年で7%台に上がる可能性がある。 1つの大きな理由は、新卒採用がこれから大きく落ち込む可能性があるからだ。大学も、専門学校も、高校も新卒の採用が大きく落ち込み、若年層の失業が増える。 恐ろしいのは95年代半ばからの「失われた世代」と言われる若者と同じ境遇の人たちが“再生産”されかねないことだ。おそらく、就職を断念する層が増えていく。 これは「求職意欲喪失者」に分類される。完全失業率には含まれ
Americans are angry at Wall Street, and rightly so. First the financial industry plunged us into economic crisis, then it was bailed out at taxpayer expense. And now, with the economy still deeply depressed, the industry is paying itself gigantic bonuses. If you aren’t outraged, you haven’t been paying attention. But crashing the economy and fleecing the taxpayer aren’t Wall Street’s only sins. Ev
I've been wondering for some months about the role of blogging for an academic. How does it fit into my job as an economics professor? What's it worth? My own views, of course, are coloured by personal experience. But that personal experience is more influenced by the current economic times than by my own biography. I went on sabbatical July 2008, after spending 9 of the previous 10 years spending
ラスカルの備忘録一時休止http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/ まあ、僕も止めようと思うことは頻繁。特に経済学の予備的知識もない人が自慢気に専門家の書いたものを批判しているのをみるたびにそう思う(個人的にそれをヒガシタニ効果あるいはHigashitani Twistと呼んでいる)。自分の書いたものに対してだけじゃもちろんない。そういう素人談義や単なる文章理解の羅列・氾濫にうんざりしているのが正直な感想。日本でまともな経済ブログやサイトはごく限られていて新規参入がほとんどないのが事実でしょうね。コメント欄をひらけば(すでに警察に届け済みだけど)いやがらせコメントやストーカー並みのはてブやスターがつく。そういう現状にはかなり前からうんざりしていますね。このうんざり度は僕なんかかなり(みんなにはそう見えないでしょうけど 笑)耐性があるほうなのです。その傍証として、もし
Nick Roweが貨幣数量方程式を取り上げた6/15WCIブログエントリにスコット・サムナーが寄せたコメントについて、ケインズの一般理論の15章を引用して小生がコメントしたところ、突然サムナーが猛反発したので驚いた。 具体的には、MV=PY式における貨幣の流通速度Vよりも、M=kPY式におけるマーシャルのkの方が自分にはしっくり来る、とサムナーがコメントしたので、一般理論の15章でケインズは、V(ケインズの表現では貨幣の所得速度)が関係するのは貨幣M全体ではなく、貨幣のうち取引に関係する部分M1だとしていますよね、と小生が指摘したところ、サムナーから以下のような反応をもらった。 With all due respect to Keynes, the quotations you provide are horribly confused. His statement that if yo
(前回のエントリー) ジョセフ・スティグリッツ「倫理的なエコノミスト」(1) 下記の書評翻訳の続きです。*1 ジョセフ・スティグリッツ「倫理的なエコノミスト」(Foreign Affairs 11-12/2005) 半歩の前進と躓き グローバリゼーションの貧困への衝撃に関する議論において、フリードマンは、たとえグローバリゼーションが国内の不平等の拡大と結びついてきたとしても、グローバルには貧困と不平等の削減につながる、との見方を支えてきた。その分析には3つの不備がある。第1は、貧困の定義に関係する。世界銀行が様々な観点から強調しているように、貧困は単に所得の問題ではなく、不安定と声を出すことができないことも、その要素の一部にある。フリードマンの分析は、完全に、これらの次元を無視している。 第2の批判は、何がグローバリズム本来の問題とはいえず、特別な政策にともなわれたものなのか、という点に関
※コメントいただいた点について、随時修正を行います。 いま、猪木武徳「戦後世界経済史」を読んでいるのですが、はしがきに次のような記述がありました。 滞っていた本書の執筆に踏み切れたのは、中央公論新社の新書編集部の高橋真理子さんに「構成目次」をお渡ししてから七年の歳月が流れてしまったことにわれながら驚いたこと、昨年秋に偶然手にした米国の経済学者、ベンジャミン・フリードマン(Benjamin F.Friedman)のThe Moral Consequence of Economic Growth(Alfred A.Knopf, 2005)を読んで大きな刺激を受けたことが影響した。同書は、今時の金融危機の発生以前に書かれているが、経済成長とモラルの関係を取り上げており、経済学が、法学や倫理学、道徳哲学から枝分かれした学問であることを改めて想い起こさせてくれた。 戦後世界経済史―自由と平等の視点か
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く