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エヴァンゲリオンに関するkenyuyのブックマーク (2)

  • エヴァンゲリオン -空虚からの同一化-|斎藤環(精神科医)

    まずはっきりさせておこう、「自分探し」など徒労に過ぎない、ということを。 精神分析、とりわけフロイト/ラカンの教えによれば、人は「語る存在」であるがゆえに、癒やされない欠如を抱えている。人は自らを語りつくす言葉をけっして手にすることはない。人は他者の言葉のネットワークの中に「存在させられる」、それだけだ。そしてここから、精神分析がはじまる。  「新世紀エヴァンゲリオン」(以下「エヴァ」)というアニメーション作品がすぐれているのは、まずこの点だ。主人公・碇シンジの「自分探し」は、結局それが想像的に——つまり擬似的に——解消されるか、あるいは探す行為そのものを放棄する以外には終わりようがないということが、とてもリアルに示されている。だからあの最終二話は、あそこに、あのように置かれるしかなかったように見えるのだ。 ところで精神科医として見る「エヴァ」は、きわめて「境界例」的な作品である。 庵野監

    エヴァンゲリオン -空虚からの同一化-|斎藤環(精神科医)
  • なぜエヴァはパチンコになってもすり減らないのか|伊藤聡

    パチンコになって失われるものどうも賭博に興味がわかず、パチンコも未経験のままなのだが、世の中にはパチンコをきっかけに『エヴァンゲリオン』を知った人も多いらしい。膨大な額のロイヤリティ収入が見込まれるというパチンコのライセンスだが、パチンコメーカーに作品の使用許可を出すかどうかは、作者として非常に判断が難しいところではないだろうか。いくら金になるとはいえ、たとえば「CR 村上春樹」などというものが登場したとすれば完全にドッチラケで、今後彼が書く作品をこれまで通り読む気になれない。セルアウト感も出てしまうし、そのような展開を望む読者はいないのである。ひとたびパチンコ台になれば、直子がみっつ揃ったら大当たりの「ノルウェイの森リーチ」などの下世話な演出もされるはずで、作品は容赦なく消費され、心血を注いだ小説はギャンブルのための素材と化す。安易に手を出すと痛い目にあう可能性がある。 しかしどうしてか

    なぜエヴァはパチンコになってもすり減らないのか|伊藤聡
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