私:硬い感じがするが無難。俺:少し傲慢な感じがある。主流。オレ:傲慢さが増加。おれ:じゃっかんアホっぽい。僕:メガネ男子っぽい。ぼく:小学生っぽい。我:中二病。朕,麻呂,某など:寒い。皆さんはどれを使っていますか?リアルでは「俺」を使ってますが文章上で「俺」だと上にも書いたとおりなんとなく傲慢そうなニュアンスがあってイヤなので「僕」を使おうと思うのだけどそうすると今度は現実との乖離が気になってきました。
私:硬い感じがするが無難。俺:少し傲慢な感じがある。主流。オレ:傲慢さが増加。おれ:じゃっかんアホっぽい。僕:メガネ男子っぽい。ぼく:小学生っぽい。我:中二病。朕,麻呂,某など:寒い。皆さんはどれを使っていますか?リアルでは「俺」を使ってますが文章上で「俺」だと上にも書いたとおりなんとなく傲慢そうなニュアンスがあってイヤなので「僕」を使おうと思うのだけどそうすると今度は現実との乖離が気になってきました。
水村美苗著『日本語が亡びるとき』を読んで、真っ先に意識が向かったのは表題のことだ。インターネットの時代となり、英語が普遍語としての影響力をますます増しているのは、同書で水村さんが指摘するとおりだと思う。しかし、インターネット時代における審美的な側面での日本語の滅びを問題とするならば、英語に対する国語としての日本語の相対的な地位の低下と同時に、乱れた日本語がこれでもかと飛び交うインターネット空間、とりわけブログのことをどうしても問題にしなければならない。 以前、僕は「ブログを書くと日本語が下手になる」というエントリーを、自身の率直な感想を基に書いた。そのときに書いたことを繰り返すと、僕のようにパソコンに向かい合った瞬間の日々の感想を、ほとんど推敲もせずに言葉にする類のブログは、誤字脱字という低級な次元を含めてひどい日本語を撒き散らす元凶である。かつて、かつてと言ってもたった数年前まで、文字を
一般論としてではなく、私のような書き方をしていると、という話ですが、ブログを始めて文章が荒れたなあと実感するところがあります。 その理由は、 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。その癖が付くと気持ちの中に「文章はじっくり推敲して書くもの」という意識が薄れてくる。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。何かを書こうとパソコンに向かってからテーマやトピックを考えることしばしば。書きたいことがなくても惰性で書く。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。推敲しない。→ 漢字の間違い、てにをはの間違い頻出。 ・書き殴る:起承転結、それに類する文章の構造を意識しなくなってきた。これは公の文章か、それともプライベートなメモか、日記か。 ・書き殴る:書かなくてよいことを書く。「書かなくてよいことって何だ」ということも、「書かなければならないことは何だ」ということもあまり考えない。これを書き殴ると言わずして何と呼びましょう
はい、今回は字がうまくなる方法をお教えします。最近はパソコンを使う機会が増えたせいで、何かと手書きすることは減りました。が、年賀状とかの手紙類であったり、結婚式などの記帳など、手書きする機会がゼロになることはありません。自分の字が見られることは、社会人として生活している以上、結構あるものです。 そんなあなたに、タケルンバ式の字のトレーニングをお教えします。私は高校までは普通の字でしたが、これをやって以来、字がうまく書けるようになりました。実践済みの方法です。よろしかったらどうぞ。 何故、うまい字が書けないのか うまい字を書けるかどうかは、一言で言えばデッサン力の問題です。絵と一緒。対象物が字というだけで、筆記具を使ってそれを描く。絵と文字の間に違いはありません。 つまり字が下手というのは、端的に言ってデッサン力が欠けているのです。 正しい字の形を理解していない 正しい字の書き方を理解してい
むずかしいことを、いかに わかりやすく論じるか。わかりにくいところを ごまかさないままに、きちんと つたえることができるか。これは、表現するものとして、おおきな課題であると おもっています。 むだに ことばを かざらず、必要で適切な ことばを えらぶ。 「べきだ」とか、「はずだ」というのは、できるかぎり ひかえる。そして、効果的に つかう。「とても」とか「きわめて」というのも、なるべく おさえる。そして、どうしても強調したいときに つかう。 わたしも そうかもしれません。むだに ことばを かざってみせる。むだに むずかしい ことばを つかう。つたわりにくく かいてしまう。 わたしの文章の問題点は、たいせつなところになると、あいまいで文学的な表現を つかって ごまかすというところです。それは、肝心な部分について きちんとした知識と見識を そなえていないからです。だから ごまかしてしまう。抽象
語彙力について考えてみた。 語彙力は、ないよりもあった方がいい。つまり言葉は知っておいた方がいい。語彙力があれば、適切に表現できるし、微妙なニュアンスを大事にして言葉を使い分けたい。言葉の微妙な違いを楽しめるのも日本語の面白いところで、院で言語学を勉強しようと思ったのも言葉が好きだからだ。言葉の持つ力。言葉が引き寄せるもの。言葉がこころに及ぼす影響。文字が意味として人の中に入っていく、その不思議な現象をとても面白く思う。優しいほんわかとした物語を読めば、優しい気持ちになれる。逆に殺伐とした悲壮感漂う物語を読めば、そんな気持ちに自然となってくる。物語に限らず、文章でもニュースでもそうだと思う。悲惨なニュースを聞けば、やはり暗い気持ちになる。 言葉の力、言葉というのはすごいものだと思うわけで、言葉は人を傷つけることもある。けれど、逆に言葉で救われることもある。生きていればなんだかんだとある。思
そのブログのエントリー記事を、少しだけ読みやすくする方法。 読み返して読み返して、文章を手直しすること。 と一行で終わらせてしまっては伝わらないので、続けてみます。「文章の一行目は、二行目を読みたくなるように書く」というエントリーを書いて、じゃあ僕はどんなことに気をつけて文章(このブログ)を書いているんだろうと考えてみたのですが、結局は「読み返して手直し」を繰り返しているだけなんですね。 他人の目になって、必ず変な箇所があるという意識で読み返す 読み返すときにポイントが2つあります。 他人の目になって、できるだけ客観的に冷静に読む 誤字や脱字、言い回しのおかしいところ、無駄に長い文章といったものが、必ずどこかにがある、という意識で読む そのままだらりと読み返しても、何も気がつきません。読み返すときは自分を殺して、他人の文章を読むような感じで読みます。 そして、「必ず変な箇所があるぞ」という
できれば本を買ってから何か語るべきなんだろうけれど、Amazonに発注したばかりで数日はかかりそうだ。この本を巡る議論で予備校時代のことを思い出した。自分が役所に出入りし政治家と会って政策課題を技術的に噛み砕いて説明し、解決へ向けて諸々のお願いをするという営為をいつ始めたか振り返ってみると、予備校時代に秋葉原で知り合った日本語教育の先生の手伝いでネットで日本人が英語を読むようになったのに、外人が日本語を読もうにも文字化けして困るという相談されてからのことだ。 そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。 いま考えると馬鹿みたいな議論かも知れないが、国費を投じて日本語コードをビットマップに変換する
ふとこの発言を目にして思ったのですが、日本語って自由ですよね。英語とかって、順番の言語じゃないですか。ちゃんと主語があって文法の並びもしっかりしていないと通じない。でも、日本語なんて主語がなくても良いし文法の並びもばらばらでも通じる。だから、日本語は聞き手が考えて理解するしかない。逆に英語等は話し手が考えてきっちりした言語を話す感じ。 こう考えると、日本語コミュニケーションって話をしている方が楽なのかな?って思いません?聞いて理解している方が大変なんだぞ、みたいな。テキトーなことを話していても聞き手ががんばって都合のいいように理解してくれてちゃんと会話になるんじゃないかと。このブログも日本語はグダグダですがみなさん読んでくれますし・・・ 読むといえば日本語は読む言語でもありますよね。日本人は道に迷うと地図を探して読む人が多いですが、欧米ではまず人に聞く。なんでなんだろーと考えて出した私の結
ブログで言及する公人に、どう敬称をつけるべきか 最近考えています。ブロガーとしての上品な振る舞い方とは、どんなものなのかと。 ブログを書く際、敬称をどうつけるべきか悩むことが多くなりました。従来、公人(大まかな定義として、=著名人)には敬称をつけないことにしていましたが、ブログを公開しており、対話の機会を持つ可能性のある人を呼び捨てにするのは、単に失礼な気がしています。 「氏」は女性につけると妙に堅苦しいし、使い分けも面倒です。で、とりあえずブログを公開している公人には「さん」をつけるようにしようかなと。 最近の例:木村剛さん、手嶋ゆうさん だからといって「松井稼頭央さん」というのも微妙なような……。 文章を書く者にとってひとつの指針となる「記者ハンドブック(手元にあるのは第8版)」によると、敬称の扱い方について、次のようなことが書かれています。 ・原則として「氏、さん、君、ちゃん」を使う
文章で「僕」はあまり使わないなあ。会話の中ではたまに使うけど。 僕と私と○○ - iGirl 文章で「僕」って書くと、なんかとても優しい感じがするのです。 僕と私と○○ - iGirl 個人的に一人称の言葉は、その場面に合わせて使い分けたいのだけど、「僕」を使う場面がそんなにない。文章だと特にない。 オレ……ざっくばらんに。対等。同じ目線。 ワタクシ……ちょっとかしこまって。わざとよそよそしくする感じ。 自分……堅い部分を強調したいとき。イメージは高倉健。 大体文章で使うのはこの3種類。ちなみにカタカナにすることが多いのは、「俺」より「オレ」の方が目立つのと、「私」を「ワタクシ」と読んで欲しいから。かしこまった感じにするために使っているので、「ワタシ」だとちょっと弱いのです。「ワタクシ」の方がいい感じ。完全に好みの問題だけど。 そういう自分の感覚で言うと、「僕」はこういう感じなんだよな。
マイクロソフトが自社の製品やサービスに用いている外来語やカタカナ用語末尾の長音表記を変更することを発表しました。 これにより「ブラウザ」は「ブラウザー」、「プリンタ」は「プリンター」になるなど、より身近に感じられる表記になるとのこと。 対象となる主な用語は以下の通り。 マイクロソフト製品ならびにサービスにおける外来語カタカナ用語末尾の長音表記の変更について このリリースによると、マイクロソフトは外来語、カタカナ用語の末尾の長音表記について、今後の製品やサービスにおいて、国語審議会の報告を基に告示された1991年6月28日の内閣告示第二号をベースにしたルールへ原則的に準拠する方針を決定したそうです。 これはコンピューターが広範に普及するにつれて、マイクロソフトが採用していた「サーバ」や「アダプタ」など、末尾の長音を省略する工業系、自然科学系の表記に対するユーザーの違和感が増大していることを受
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