ブックマーク / d.hatena.ne.jp/terracao (12)

  • ぶりっ子告白は成功しますか? - 女教師ブログ

    友達からの相談です。みなさんは、ぶりっ子は好きですか?ぶりっ子な感じで告白するのと、そうじゃない感じだとどっちが成功率が高いですか?告白相手は二十歳の男子大学性です。ちょっと誘ったりしてくれていたんだけど、彼の気持ちにいまいち確信が持てません。よろしくお願いします。

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2010/03/25
    変に裏読みしちゃう・・・ / 真面目に答えるならリア充の事は知らないです。
  • 弾でもわかる「法システム」入門 - 女教師ブログ

    小飼弾、くだらないナルシズムを垂れ流すのもいい加減にしろ。 404 Blog Not Found:被害者は私だという全ての人たちへだとしたらなぜ気づかないのか。法というのも、暴力なのだ、と。まず、弾は、「法というのも、暴力なのだ」といって、法システムの持つ暴力性にコミットしているように見える。しかし、後段になると、その [=人間の持つ破壊的衝動の―terracao注] 暴力的な力を法で押さえ込めると考えるのは、「空腹禁止」と法に書いたら腹が減らないと思い込むほど空虚な絵空事である。などと言っている。これが著しく矛盾していることに気づくだろうか。つまり、法システムの「質」は暴力であると認識しているにもかかわらず、法では「別の暴力」を押さえ込む力はないと言っているのである。これは、おかしい。 まず、法システムが遂行する「暴力」は、厳密に言えば、単なる「禁止の表明」を意味しない。もし仮に、弾の

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2010/03/23
    あとで読むときにこっちも読む
  • 日本の人は「メダルきちがい」です - 女教師ブログ

    オリンピックになると毎年このフレーズを連呼する私だが、年々、伝わらないひとが増えていくことが悲しい(無理もない話だが)。特に若い人から、ただの「アブねー奴」という目で見られる。 国母には、ハーフパイプ決勝後のインタビューでこのフレーズを言って欲しかった。「なんてトンチがあるんだ!」と高く評価すること請け合い(主に私が)。一休さんか。

  • 無意味なことまで「社会勉強」を口実に、子どもに強制する大人たち - 女教師ブログ

    先日の「クラス対抗30人31脚をやめろ」という記事には、おそらく拙ブログで最高数のコメントがつきました(この記事を書いている時点で157個!)。 そこでけっこう見かけた意見に次のようなものがあります:社会に出たら、たとえ嫌でもやらなければならないことはたくさんあるのだから、30人31脚も「嫌だからやるな」というのはおかしい たとえば、以下のようなもの...学校で理不尽なくだらない行動に付き合わされる事に慣れておかないと社会に出た時苦労すると思います。実際問題そんな感じではないかと思います*1...学校とはいずれ社会に出て行く子供達に社会訓練を行う場です。あなたは「個人の意思」と「わがまま」を勘違いしてはいませんか?算数が苦手な生徒の気持ちを尊重して算数のテストを廃止するでは通らないでしょう。そもそも社会自体が理不尽なことを避けては通れやしないというのに・・・*2何人かのコメントにもあるが、

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/12/24
    社会に出たら嫌でもやらなきゃいけないことがあるという事を身にしみさせる為、毎年社会人に30人31脚を義務として課すべき。
  • 30人31脚を即刻廃止すべきである7つの理由 - 女教師ブログ

    現在、小学校教育現場の一部で、テレビ朝日系列局が放映している「太陽生命・30人31脚」というテレビ番組への出演を前提とした「教育活動」が行われています。その公式ルールを見れば明らかなとおり、この競技は、クラス全員が参加の同意を表明することを前提としていますが、クラス全員参加による30人31脚の教育的意義は、以下で述べるとおり、全く確かなものではありません。そればかりか、かえって、児童の身体発達、人間関係、ライフスタイルに深刻な害悪を及ぼす危険性すらあります。 したがって、テレビ朝日をはじめとした同競技の主催者、および学級担任や保護者など小学校教育の関係者には、即刻、クラス全員参加による30人31脚を中止することを提言します。(以下、特に断らない限り、「30人31脚」とはクラス全員参加による同競技のことを指します) 1. 「クラス全員が参加に同意する」ということが、いかに尋常でない状況である

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/12/13
    うわぁ・・・コメントすげぇ・・・
  • うさぎ - 女教師ブログ

    教室で飼育したブタをめぐる映画「ブタがいた教室」が話題を呼んでいるが、津南町の津南小学校の5年生児童67人が13日、飼育してきたブタとのお別れ会を開いた。「命」と「」の大切さを学んだ子どもたちは3匹のブタと涙でさよならした。...中略... お別れ会では、児童全員が呼び掛け形式で子豚の思い出を語り、「大切な仲間だよ」とメッセージを送った。津南小版「ブタがいた教室」(新潟日報2008年11月14日) お気に入りの写真がある。 まだ「立っち」もできない赤ちゃんが腹這いになって、これまた赤ちゃんのウサギと顔を付き合わせている写真である。 可愛いと思う。可愛すぎる。赤ちゃんとウサギだよ。こんな可愛すぎる組み合わせが他にあるだろうか(いやない)。 実家に帰るとことあるごとにその写真が挟まれているアルバムを開く。「ウサギさんは私の友だちだよ☆」――母の手書きの文字が微笑ましい。   *  *  * 

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/12/09
    今に比べると結構読んでたんだなぁ。
  • 過去ログ転載エコのすすめ(「僕らのライフファック」第14回) - 女教師ブログ

    昨日の「体罰」に関する記事ですが、はてなブックマークから判断する限り、けっこう注目をあつめたようです。(ちなみに、昨日のアクセス数は約6300で、いつもの数倍でした)「体罰は教育ですか?」―オフコース、イエス!!! - 女教師ブログ しかし、この記事は3年前の記事とほぼ同内容です。つまり「使い回し」(リサイクル)です「教育的」暴力は仕方ない(かもしれない)が、最悪の事態は避けたい。 - 女教師ブログ この事例からブロガーの皆さまに示すことができることは、「ある程度長く続けているブログであれば、毎日新鮮なネタを発掘するのに頭を悩ませなくても、過去ログ転載で回すことができる(かもしれない)」ということです。どうせ多くの読者は、あなたのことになどこれっぽっちも興味がないはずなので、1年もたてば過去の記事など忘れているはずです。「使い回し」してもバレないでしょう。 まあ、3年前の記事で、私はまだ1

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/09/19
    同じようなのを読んだ記憶があると思ったらやっぱりそうだったか・・・!
  • 「体罰は教育ですか?」―オフコース、イエス!!! - 女教師ブログ

    「体罰の会」なる会のウェブサイト(トップページ)より引用:あなたは「体罰」と「暴力」を混同していませんか? 体罰は【相手の進歩を目的とした有形力の行使】です。 したがって体罰は教育なのです。 私達とともに「体罰」を正しく理解しましょう。体罰の会 「教育とは『強育』である」なんて、上手いような上手くないようなことを言ってる人がいたりいなかったりするが、ともかく、たしかに教育は、放っておけばけ「自然」にすくすく成長していく(らしい)子どもに、「かくあるべし」という枠を「強制」することである。なのだから「育つのを強制する」という意味で、なるほど「教育は強育」なのだ。 「あなたのためだから」という根拠をもとに、学校という施設に放り込み、50cm四方しかない席に一日中拘束し、生活から乖離した知識を「あなたのためだから」と言って強制的に教える。 体罰や社会復帰施設でのしごきは暴力に違いはないが、「暴力

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/09/19
    なんかすごい前に読んだことがある気がする文章だな・・・
  • 女教師ブログ

    過去ログも概ね変更。カテゴリの説明は以下のとおりです。 社会どのカテゴリに入れるか迷うような記事をとりあえず放り込むためのカテゴリ音楽「へたれJ-POPアーティストがむかつく」とか「J-POPの歌詞に(過剰な)政治性を見いだす」ような記事が中心教育教育に関すること、「英語教育」関係ももここに入るコミュニケーション特に「人間的コミュニケーション」言説が中心。英会話の話はここには入れない小学校英語小学校英語に特化した記事メディア報道とか、メディアリテラシーとかリテラシーメディアリテラシーとか、識字の問題とかすごく役に立つ知識すごく役に立つ知識をこっそりあなたに教えてあげる倫理倫理的判断に関する記事、多分あまり書かれないintercultural異文化に関する記事log_musica個人的な音楽メモ。ネットラジオの視聴ログとか。英語喉2008年最初頃にやってた『英語喉』日記。現在休み中。再開は未

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/08/29
    ブクマしてなかった。onな教師ブログ
  • 「責任」をめぐって:自己責任と他者責任 - 女教師ブログ

    倫理 このところの「間接的×××*1」に関する論争*2について、僕自身、かなり混乱しつつ、それでも色々考えたりした。 で、この論争自体に、まだひどく混乱している。たいていの不毛な論争というのは、「両者によって語・概念の定義が違う」「言い方が良くない」「どっちかの陣営が、おそろしくバカ」といった理由で整理できるものなんだが、この論争自体は、これらのいずれでも説明ができそうにない(と直感的に思う)。正直に白状すると、すでに何人かの人が「まとめ」を書いているが、そのどれもが僕を納得させるものではない。そう、もう、僕は純粋にこの問題がなぜ論争にいちがいが生じているのかを知りたいだけなのだ*3。 で、いきなり脱線なんだが、「自己責任」という言葉がある。わりとアレルギー反応を引き起こす言葉だと思う。「働かなくてホームレスになったのは自己責任」「積極的に会話をしようとしないなら(≒非コミュ)、コミュニ

  • 「間接的人殺し」という価値観を押し付けることが「政治的に正しくない」例をいくつか考えた - 女教師ブログ

    倫理 http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070421#1177098602だれも応答してないようなので代わりに僕が答えてみる。(↑なんでだよ、ってかんじかもしれないけど、ここ最近ずっとこの辺りのことをすくない「人間力」を消費しながら想像してみていた) 「間接的人殺し」という価値観を押し付けることが「政治的に正しくない」例1. 自分の落ち度で他人を死に追いやった人間にとって、「間接的人殺し」という語はあまりにも重い: これはさらに言えば、サバイバーズギルト(wikiの解説はこちら(一番詳しい英語版))なんかを背負った生存者は、もはや自分の落ち度でさえないのに、「人殺し」につながる「間接性」を言うことはあまりにも酷。これを言うのはすごく気が重いのだけど、サバイバーズギルトの例の多くは、落ち度はたしかに生存者には無いのだけれども、生存者は"死者のおかげで"助かった

    komurasakihokori
    komurasakihokori 2009/02/15
    ちょういまさらながら
  • 完璧なエルサレム賞などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。 - 女教師ブログ

    六月にデートした女の子とはまるで話があわなかった。僕が南極について話している時、彼女はエルサレム賞のことを考えていた。 エルサレム賞の目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。 「ね、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。「たぶんね」「男の人ってエルサレム賞のこと考えながらあれやるわけ?」「まあそうだろうね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいはエルサレム賞のことを考えながらやっているんじゃないかな」「スエズ運河?」「たとえば、だよ」 「エルサレム賞?」と僕は聞いた。「知らなかったの?」「いや、知らなかった」「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。

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