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小谷野敦に関するkotobukuのブックマーク (18)

  • ホモソーシャルについて - jun-jun1965の日記

    前川直哉の『男の絆』について私が書いた一点のアマゾンレビューが時おり話題になるので、いちおう説明しておく。 上野千鶴子の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』もそうだが、なるほど、こういうことは一般にはまだ知られていなかったのかと思ったもので、こうした話は、学者(文学研究者、社会学者)の間では、1990年代にさんざん議論されていたことで、上野著にも前川著にも、私を含めそれらの人は、別に新しいものは何も見出さなかったであろう。 特にいずれも、物故したイヴ・コゾフスキー・セジウィックが『男同士の絆』の序文で言ったことをそのまま信奉している。なおセジウィックのこのが、邦訳される前、おそらく日で一番早く紹介したのが、私の『夏目漱石を江戸から読む』(1995)なのだが、まあそれはいい。 セジウィックはその序文で、ホモソーシャルという概念を打ち出している。ただこの概念をセジウィックが作ったというわけで

    ホモソーシャルについて - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2011/08/14
    セジウィックは、考察を進めるにつれて、ホモソーシャルとホモセクシャルの間の区分は曖昧であることに気づいてしまう。そしてまた、ホモセクシャルもまた、時にはホモソーシャル以上にミソジナスである
  • ギャツビーの構造 - jun-jun1965の日記

    こないだふと、『グレート・ギャツビー』とか『ロード・ジム』とか、悲劇的な最期を遂げた人間について、近くにいた人間が語るという小説構造が、福音書と同じであることに気づいた。漱石の『こゝろ』もそうで、あれはかねて福音書に似ていると言われている。私はギャツビーもロード・ジムも別に感心しないのだが、おそらくキリスト教徒にとっては、その語りの構造が福音書を思わせる点で、既にギャツビーやジムをキリストに見立てる準備ができるのだろう。日もまた、潜在的キリスト教徒が多いから。 - http://konokensuke.weblogs.jp/blog/2011/01/%E8%BF%BD%E6%82%BC%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%BF%AE.html 私が小浜逸郎の人間学アカデミーで講師をした時、最後の飲み会で私にからんできたのが、この山内という人。私が宮沢賢治が嫌いだと思っていたらしい。

    ギャツビーの構造 - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2011/08/07
    こないだふと、『グレート・ギャツビー』とか『ロード・ジム』とか、悲劇的な最期を遂げた人間について、近くにいた人間が語るという小説構造が、福音書と同じであることに気づいた。
  • 中村健之介のドストエフスキー - jun-jun1965の日記

    鹿島茂は延々と「ドーダの文化史」だか何かを『一冊の』に連載し続けていて、最初は面白かったのだが、これって何にでも適用できてしまうので、近頃は読んでいなかったが、ふと覗いたら小林秀雄で、小林はあれもダメこれもダメと否定しておいて、自分の母親みたいなものを持ち出して、これには誰もかなわない、とやる、と書いてあってそれはおかしかった。 で、『週刊文春』を立ち読みしたら、鹿島が書いていた。「ドーダ」は、その前がドストエフスキーだったらしく、それに共感した中村健之介から、講談社学術文庫に入った『ドストエフスキー人物事典』を送ってきたという。私は往年、中村氏と面識もあった当時、朝日選書のこれを購入したのだが、分厚くて別に読む気にもならず、いつしか古書店へと去って行った。 鹿島によると、中村は、従来のドスト研究はドストエフスキー・カルトになっていた、と言っているというから、驚いたのだが、まあ続けると、

    中村健之介のドストエフスキー - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2011/07/01
    何度も言うが、ドストは、キリスト教徒でなければ意味のないことをたくさん書いていて、中村健之介は、ドストを離れたなと思ったら宣教師ニコライの研究を始めた骨の髄までのキリスト教=ロシヤ正教の徒
  • 社会学者 - jun-jun1965の日記

    http://miura.k-server.org/newpage1119.htm 上野千鶴子や宮台真司を槍玉にあげて、社会学を撲滅せよと書いたら、小谷野敦氏からあんなのは社会学者じゃないのだとご批判を受けたけど、いや、この内田隆三をふくめ、ああいうのが社会学者なんだと思う。だいたい、東大や首都大の教授をやってる社会学者なら、そりゃ日の社会学を代表しているわけで、少なくとも世間ではああいうのが社会学だと思っているし、もちろん当人もそう思っているのであって、そうじゃない小谷野氏の意見はあくまで少数意見に過ぎない。そもそも、上野千鶴子は外部からわざわざ東大に呼ばれたわけでしょ? つまり、社会学者としてきわめてまともだと思われているから招聘されたんですよ。それとも東大の社会学科所属および出身の社会学者は全部ニセモノなのだろうか?? えーと事実誤認ですが、三浦先生は『父親であること』(?)を評し

    社会学者 - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2011/07/01
    上野を呼んだ際のポイントは、上野が、本当の権力には逆らわない人だということで、公金費消で問題になった先任教授についてもな~んにも言わないし、東大内部で誰かを槍玉にあげたりしたことはない。「猫猫ブログ」
  • 大逆事件の二つの見方 - 猫を償うに猫をもってせよ

    (承前) 今年は大逆事件の百周年だったが、この事件に対する二つの見方の対決は、遂に行われないままだった。というのは、 1、山県有朋によるフレームアップである。管野スガ、宮下太吉ら四人以外は冤罪である。けしからん。 というのと、 2、天皇暗殺を計画した管野スガらは、素晴らしい(ないしそのこと自体を評価すべき)革命家である。 という二つの立場である。 絲屋寿雄は、それまで「1」ばかりが目立ったことに抵抗して、「2」の立場で『管野すが』を書いたのである。しかし黒岩さんは、1970年のこのと、1987年の、および清水卯之助の『管野須賀子の生涯』(2002)を読むと、まったく印象が違う、と言う(*)。しかしそれなら、やはり70年に出た瀬戸内晴美の伝記小説『遠い声』も参照してほしかった。 ところが、ではそれらののどこがどう違うのかを説明しないまま、黒岩さんは、いきなり絲屋著を攻撃するのである。こ

    大逆事件の二つの見方 - 猫を償うに猫をもってせよ
    kotobuku
    kotobuku 2010/12/02
    今年は大逆事件の百周年だったが、この事件に対する二つの見方の対決は、遂に行われないままだった。@猫猫先生
  • 会社の名前が長くなる - jun-jun1965の日記

    一時期、銀行の合併で、太陽神戸三井銀行とか、長い名前の銀行ができた。だいたい整理されたが、三菱東京UFJだけは長いまんま。こういうのは統合で長くなった例だが、近ごろは子会社を作ったり改名したりして長くなる出版社が多くて、何か不快感がある。角川学芸出版とか角川ホールディンググループとか、冨山房インターナショナルとか集英社インターナショナルとか、南雲堂フェニックスとか、PHPエディターズ・グループとか、改称したのや元の会社があるのとか、いろいろだが、これは、文献として書く時に面倒である。大学の場合、四天王寺国際仏教大学が四天王寺大学になるとか、覚えやすいように短くする傾向があるのだが、この、出版社がやたらと長く、かつ片仮名をくっつけるのは何か亡国的でもある。福武書店がベネッセコーポレーションにしたのがそのはしりではあるまいか。なんで「右翼」とか「保守派」の人たちは「エディターズグループとは何ご

    会社の名前が長くなる - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/11/04
    出版社がやたらと長く、かつ片仮名をくっつけるのは何か亡国的でもある。福武書店がベネッセコーポレーションにしたのがそのはしりではあるまいか。@猫猫先生
  • 猫猫塾夏期講座(文学) - jun-jun1965の日記

    http://www.pipeclub-jpn.org/column/column_01_detail_77.html 連載二回目です。「憎悪はもう…狂っている」はちょっと変ですね。 - 生徒:先生、小説とかを論じていて、「完成度」って言葉が出てきますね、あれは、どういう意味なんですか。 先生:お、それはいいところに気がついたね。こういうのはみんなたいてい、分かったような顔をして、訊くのは恥ずかしいと思っていたりするからね、そういうことをあえて訊くのはいいことだよ。で、辞書は引いたの? 生徒:はい、『日国語大辞典』を引きました。 先生:それはすばらしい。最近はツイッターなんてのがあって、そこですぐ自分で辞書を引きもしないで人に訊く人なんかいるからねえ。で、何て書いてあった? 生徒:いやあ…もう簡単に、完成している度合いとか…。 先生:説明になってない、ってやつだね。 生徒:ああ、でも用例

    猫猫塾夏期講座(文学) - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/09/20
    面白いとか感動したとか、じゃない良さのことを、時々「完成度」って言うんだな。
  • 太刀持ち露払い - jun-jun1965の日記

    齋藤秀昭さんから『彷書月刊』を送ってきてくれたので坪内祐三の文章が読めた。ここで、横綱白鵬の太刀持ち露払いについて、時天空と書いた作家(誰だか知らない)がいて、時津風一門の時天空は原則として白鵬の太刀持ち露払いはやらないので旭天鵬の間違い、としている。坪内さんが問題にしているのは、最近の、インターネットに頼った校閲で、これは私も同意である。こちらは現物を見て書いているのに、ネット上の間違った情報をわざわざプリントして送ってくる校閲とかがいる。 それはさておき、この「原則として」である。太刀持ち露払いはまず同部屋力士が最優先だが、これは関脇以下の幕内力士が務める。ただ、大関が陥落した力士は使わないのが普通である。二人の該当者がいない場合、一門の他の部屋から借りる。しかし、同部屋だと横綱との対戦はないが、一門別部屋だと対戦することがあって、その日は太刀持ち露払いはできないから他に代わる。 さあ

    太刀持ち露払い - jun-jun1965の日記
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    kotobuku 2010/07/30
    「教養」は近代の翻訳語であるから前近代には概念が存在しないと、どうして哲学を専攻していて、こういう言語的な迷宮にはまりこんでいくのか、それは甚だ疑問である。
  • 文学報国会の時代 - jun-jun1965の日記

    前から言っていることだが、夫婦別姓法論者らの裏にあるのは、一人娘を持つ親どもの家名存続というリベラルどころか前近代的な思惑である。 しかし民主党案では、子供の姓は先に決めておくことになっている。それなら問題ないかというとそんなことはなくて、子供が生まれた時点で離婚して親権を請求して裁判を起こし子供の姓を母方に変えてしまうことだってできる。離婚裁判と親権は母方に甘いからね。 別姓法なしでもそれをやろうとしたのが別姓論者の野田聖子で、未入籍のまま人工授精をやり、あれもし生まれていたら自動的に野田姓になるわけだ。鶴保もバカだからそれになかなか気づかなかったというわけ。菅がそういうことが分かっているのかいないのか。 - 私は昔、吉野孝雄と吉野秀雄を混同していたことがあった。その吉野孝雄『文学報国会の時代』を読んだらこれがひどいだった。前に書いた中河与一のブラックリスト事件について、証言した井上司

    文学報国会の時代 - jun-jun1965の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/07/28
    夫婦別姓法論者らの裏にあるのは、一人娘を持つ親どもの家名存続というリベラルどころか前近代的な思惑である。
  • 旅行と実証 - jun-jun1965の日記

    作家が、温泉地へ行ったり、ホテルに缶詰めになったりしてものを書くなどと聞くと、ふーん資料なしで書ける職業はいいなあ、などと思う。作家でもそういう人はいるが、資料に基づいて書く学者とか評論家というのは、基的に家に張りついていなければならない。さらに厄介なのは、使い終わった資料で、若いうちはいいけれど年を重ねてくると、これを全部とっておくほどの邸宅に住んでいるのでなければ、捨てるしかない。大笹吉雄さんに昔質問した時、資料は終ったら捨ててしまうと言っていたが、そりゃああの浩瀚な『現代日演劇史』の資料を全部とっておくほど、大笹さんが裕福であったはずがないから仕方がなく、読者から質問されても答えられない。書いたものについて答えられないなんて無責任だと言われたって、資料をとっておくほど裕福ではないのだからしょうがない。「整理法」などというのは、邸宅を持っている人にしか意味のないもので、その整理した

    旅行と実証 - jun-jun1965の日記
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    kotobuku 2010/07/28
    資料に基づいて書く学者とか評論家というのは、基本的に家に張りついていなければならない。
  • 白川静と高島俊男 - jun-jun1965の日記

    高島俊男先生の新刊『お言葉ですが 漢字検定のアホらしさ』には、白川静と藤堂明保の論争を扱った、『ユリイカ』に載った文章も入っている。ここで高島先生は、まあ中立的、といった論じ方をしているのに、あとがきでいきなり、白川のはつまらん、と言い逃げしている。これは困るのである。そう言うならちゃんと論じてほしいのである。それから、井波先生との露伴「運命」論争もちゃんとやってほしいのである。 - 山芳明という人の論文を読んだのだが、どうもこの人は「通俗小説」を問題にしながら、実際の通俗小説として読むものといったら、『真珠夫人』とか、有名なものばかりなのだよね。それじゃダメだろうと思った。 - 谷崎詳細年譜の、谷崎精二再婚を、昭和16年11月5日に訂正。青野季吉日記による。 黒岩比佐子『古書の森 逍遙』(工作舎)への補足 『新小説臨時増刊 文豪夏目漱石』は、漱石の弟子たちが相談して作ったものだが、編

    白川静と高島俊男 - jun-jun1965の日記
  • 私は東浩紀に負けた - jun-jun1965の日記

    はい、東さん、三島由紀夫賞受賞だそうで、おめでとうございます。あれは面白い小説でした。 「任期付き」といっても人気があるようなので更新されるのでしょう。30代で早大教授。なに、東大でなくてもいいではありませんか。 何も一回りも年下の人相手に勝ったの負けたのやらなくてもいいようなものですが、私なんぞ小説を書いても芥川賞も三島賞も候補にすらならないし、もう教授になる見込みなんかないんだから、もうこれは負けた、でしょう。 いくらデリダやポストモダンが学問的詐欺でも、東が留学もしたことがなくても、人気のある者が勝ちなのであります。まあ東さんは東大学術博士(しかも私と同じ超域文化科学)だから文句ありませんが、もう今や、漫画やアニメ評論をやっていれば、大学院なんか行ってなくても大学教授になれるご時世です。何? 大学にこだわるお前は権威主義だ? 冗談言っちゃいけません。給料がもらえるほうがいいに決まって

    私は東浩紀に負けた - jun-jun1965の日記
  • 第二藝術論  - jun-jun1965の日記

    平川祐弘先生が東京新聞の書評欄で暴れん坊ぶりを発揮している。昨日は柴田依子(1938−)の初の単著『俳句のジャポニズム』。柴田は東大比較文学会会員なのだが、出身ではないし教えたことがあるわけでもない、不思議な人だ。送ってきたのを書評したのだろう。 中身はフランスのポール=ルイ・クーシューという、俳句に関心を寄せたフランス文人の研究で、柴田は以前、比較出身の金子美都子とともにクーシューのものを翻訳している。さて平川先生、まず忠実な弟子・夏石番矢の句を紹介して、世界に活躍する夏石番矢を宣伝。続いて「第二藝術論」の桑原武夫を、自虐的な日人として批判する。そのあと内容紹介があって、しかし最後は、よく調べてあるが藝術的にはどうか、などと書いてある。学問はよく調べてあればまずよいのであって、藝術的にどうかなどと言うあたり、暴れん坊たるゆえんである。 ところで、私は俳句第二藝術論である。平川は、世界的

    第二藝術論  - jun-jun1965の日記
  • 2010-04-11 - 猫を償うに猫をもってせよ

    私もオタどんに倣ってゼロ年代(この言葉好きじゃないが)のベストをあげてみよう。 桃谷方子『百合祭』2000 加藤詩子『一条さゆりの真実』2001 酒井邦嘉『言語と脳科学』2002 猿谷要『ハワイ王朝最後の女王』2003 阿部和重『シンセミア』2003 沓掛良彦『エロスの祭司 評伝ピエール・ルイス』2003 坪内祐三『『別れる理由』が気になって』2005 勝目梓『小説家』2006 西村賢太『どうで死ぬ身のひと踊り』2006 2007年以降はないのか? といえば、まだ読んでいないのがあるのかもしれないし、やはり三年くらいたたないと冷静な判断はできない。 - 『黒船前夜』が朝日にも書評が出て、これで読売、毎日、東京と揃ったわけで、しかしあれって他人ののつぎはぎで、別に新事実はないと思うのだが。 - たぶん単行に入っていないのだろうが、島田雅彦が無限カノン三部作を出した時に福田和也が批判した

    2010-04-11 - 猫を償うに猫をもってせよ
  • ニーチェの無意味  - jun-jun1965の日記

    どういうわけかいつもハガキでブログなどの感想を言ってよこす大阪の山田氏より、私が死刑廃止はキリスト教の影響だというが、ではなぜキリスト教が支配的だった西洋中世には死刑があったのかと問うてきた。 なるほど、もっともな問いだ。しかし私は、キリスト教が死刑廃止の単一の原因だとはたぶん言っていない。もちろんそれは、近代的な人権思想が根底にあるのだ。だが、死刑廃止論者とか復讐否定論者の言論は、キリスト教を背景にしていると、私は言っているのである。 なおキリスト教道徳が一般に広まったのは18世紀の啓蒙思想以後であると、下の永井のにあった。そうだろうと思う。 - 川上未映子が永井均を愛読しているというのは知っていたが、『へヴン』はそれで永井の影響を受けているというのだが、私は永井をあまり読んでいなかったので、図書館で四冊くらい借りてきたら、河出文庫から昨年出た『道徳は復讐である』というのは河出から前出

    ニーチェの無意味  - jun-jun1965の日記
  • 陳腐な合唱 - jun-jun1965の日記

    ライターズ・ジム著となっているが、見崎鉄という人が書いた『謎解き「世界の中心で、愛をさけぶ」』を図書館で予約してようやく手に入れた。はじめのほうを読んで、そうだそうだと膝を打つ。 これがベストセラーになった当時、『いま、会いに行きます』などと併せて、なぜこういうものが売れるのか、というのでどこだったか新聞が話を聞きにきた。記者氏はいきなり、こういう陳腐なものが売れて、みんな驚いたわけですよね、と言うので、私は、みんなって誰ですか、と問うた。記者氏はびっくりして、いや、こんな、ありきたりな物語が…などと言う。もちろん、ベストセラーになったのだから、買って読んだ「みんな」ではないわけで、知識人がみんな、というような意味だろう。しかし私が「誰がびっくりしたんですか」といったことを繰り返すので、記者氏はとうとう「あの、お話を伺いに来たのですが・・・」などと言い出し、私はしょうがないと、説明を始めた

    陳腐な合唱 - jun-jun1965の日記
  • 民俗学嫌い - jun-jun1965の日記

    常一がいつの間にかけっこう文庫化されていて人気があるらしいのを知った。佐野眞一の『旅する巨人』の影響もあるのだろう。 宮は、1980年代に再評価され始めたという。私が宮の名を知ったのは、確か1979年に伊丹十三が朝日新聞で「私の日地図」全15巻を勧めた時のことだが、既に67年から著作集の刊行は始まっており、当時で25巻くらいあったのか。それのほかに『私の日地図』があるわけだから、ずいぶんたくさん書く人だなあ、と思ったものだ。著作集はその後も『私の日地図』も入れて、今では50巻にもなっている。 それからほどなく『忘れられた日人』『家郷の訓』が岩波文庫に入り、のちそれらは読んだ。「土佐源氏」などはむろん面白かったが、これは宮作のポルノが原典で、実話かどうかは疑わしい。 『旅する巨人』は大宅壮一ノンフィクション賞受賞作だが、実はあまり面白くない。当時から、佐野の代表作はこれでは

    民俗学嫌い - jun-jun1965の日記
  • 足利尊氏は悪人扱いされたか? - jun-jun1965の日記

    (活字化のため削除) - 『週刊読書人』に『大河ドラマ入門』のことが書いてあるとオタどんに教えられ、図書館で見てきた。まだ見もできてないのに、詳しい。さすが光文社(なのか?) だがその読書人の第二部一面に立川談四楼の新書十冊推薦みたいなのが載っていて、『遊女の文化史』があったのでげんなり。しかも文面を見ると「書いてあるだろうか」などとあって、全体に読まずに書いたらしく見える。「当然、好きで遊廓で働いていた女もいるはずで」(うろ覚え)とあって、何を根拠にそういうことを書くかなあ。私の知る限りそんな例は徳川・明治を通じてないのだが。 談志師匠の「幽女買い」というのを聴いたことがある。あの世へ行って「幽女」を買うという話だが、「ゆうじょ? 古風だね」という台詞がある。つまり徳川時代に「遊女」なんて言わなかったのである。「じょうろ」である。『遊女の文化史』に書いてあるような、近松が描いたような

    足利尊氏は悪人扱いされたか? - jun-jun1965の日記
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