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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (7)

  • 名前という政治的資源 - heuristic ways

    ナポレオン三世(シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1808−73)は、「偉大なるナポレオンの出来の悪いファルス」という戯画的イメージによって知られているが、鹿島茂氏は、『怪帝ナポレオン三世――第二帝政全史』で、いろいろ調べていくと、ナポレオン三世は「バカでも間抜けでもない」し、「ゴロツキ」でも、「軍事独裁のファシスト」でもない、「スフィンクスのような人物、つまりどんな定義の網もかぶせることのできない謎の皇帝、端倪(たんげい)すべからざる怪帝」として、改めて見直される人物ではないかと問題提起している。 マルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』で、ナポレオン三世を、「叔父のかわりに甥」という二度目の茶番(ファルス)として描いているようにみえるが、実は、「マルクスが一番憎んでいたのは、ナポレオン三世のクー・デタで一掃されたティエールらのオルレアン王朝派ブルジョワジー」だったと鹿

  • 源頼朝をめぐって - heuristic ways

    坂口安吾の「源頼朝」(『安吾史譚』所収)を読んだとき、私は最初、頼朝の前半生(伊豆での流人生活)から後半生(鎌倉幕府の創立)への転回・飛躍が、何か突然の思いもよらない冒険のように思えた。源氏の大将源義朝(よしとも)が平治の乱に負けて京都から逃れ、父(義朝)の一行とはぐれた十三歳の頼朝は遊女屋にかくまわれて潜伏生活をつづける。ところが父、長男悪源太、次男朝長はいずれも「非業の最期」をとげ、「三男頼朝が自然に源氏の正系となった」。やがて頼朝も平家の侍に捕らえられ、「六波羅(ろくはら)へ送られて死罪になる」ところだったが、平清盛の継母の池の尼が頼朝の助命をたのんでくれたため、伊豆への流刑で済むことになる。以後頼朝は伊豆の片田舎でまる二十年間というもの、父祖の菩提を弔うため一日も欠かさずに念仏三昧に日を暮らす。 そんな「無為の二十年」を過ごしていた頼朝が、北条政子との駆け落ちめいた結婚によって坂東

  • 日本中世初期の国際的背景 - heuristic ways

    中世史はわかりにくい。 郷和人氏が指摘している一一七〇年代の「平家政権と高麗の武人政権の類似」(『武士から王へ』)についてもっと知りたいと思って、いろいろ調べているが、日国内だけでもなかなか事実関係がややこしくて、どんどん深みにはまっていくわりには、どうにも「理解」が追いつかない。そんな感じで、このところ停滞している。もっと時間をかけてじっくり勉強していく必要があると感じている。 ただ、調べていくうちにふと気づいたのは、「平家政権と高麗の武人政権の類似」が特に注目に値するのはむしろ、それ以後の歴史が違っているからだということだった。 姜在彦(カン・ジェオン)氏は、『朝鮮儒教の二千年』の中で、こういうことを書いている。 (藤原一族の)摂関政治下における中央と武士団との関係は、高麗創業期における中央王権と地方豪族とのそれによく似ている。だとしたら高麗が地方割拠的な「旧臣宿将」を排除また

  • 荒畑寒村『谷中村滅亡史』など - heuristic ways

    G.K.チェスタートンのブラウン神父シリーズのある有名作品(1911年発表)に、「木を隠すなら森の中へ」云々という有名な言葉がある。正確には、次のようなセリフらしい(某サイトより引用)。「賢い人は葉をどこへ隠す? 森の中だ。森がない時は、自分で森を作る。一枚の枯れ葉を隠したいと願う者は、枯れ葉の林をこしらえあげるだろう。死体を隠したいと思う者は、死体の山をこしらえてそれを隠すだろう」  足尾銅山の経営者はまず、「銅山の廃棄物(捨石)を隠すには川の中へ」と考え、それを実行したわけだが、川に大洪水が起きると、そのためにかえって近隣の地域と住民に鉱毒の被害が拡大してしまった。では、鉱毒の被害を隠すためには? 荒畑寒村『谷中村滅亡史』を読むと、奇想天外なまでに大掛かりで、ポウの「盗まれた手紙」の大臣を思わせるほどに大胆不敵な犯行の手口(トリック)が、フィクションではなく、現実に組織的に実行されたと

  • 渡辺京二『北一輝』 - heuristic ways

    渡辺京二氏が『北一輝』(ちくま文庫、2007年、原著1978年)という著書を書いていることを知り、ネットで取り寄せて読んでみた。これは北一輝の評伝であり、北の革命理論や戦術、その認識の修正や深化、北自身の変質や転落のプロセスを読み解いた試みである。「あとがき」によると、著者は、「北一輝問題」(1975年)という文章を書いた後、「北を十分論じ尽せなかった気がかり」があったが、今回の著書で「彼についてはすべてを論じ尽したという思い」に達したという。 私が少し驚いたのは、書の中で渡辺氏が、松健一氏や松清張氏の北一輝論を、「けちょんけちょんに」という感じで厳しく批判していることだった。松健一氏の思い込み*1や読み間違い*2に対する指摘はなるほどと首肯させられたが、松清張氏が北の「理論」を理解する能力をもたないという批判*3はどうだろうか。 基的に松清張氏は歴史家としての立場から北の歴

    kousyou
    kousyou 2011/08/28
    おもしろい。確かにアクロバティック。
  • 市民権と武装権 - heuristic ways

    私が最初に読んだ小熊英二氏の著書は、『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制』(2004年)だった。これは、「市民と武装――アメリカ合衆国における「武装権」試論」と「普遍という名のナショナリズム――アメリカ合衆国の文化多元主義と国家統合」の二の論文を収めたもので、前者はもともと1994年に発表されている(後者は1992年に執筆したが、未発表だったとのこと)。 最初に読んだときは「アメリカの銃規制問題」の歴史的背景を考察したものというぐらいの印象しか持たなかったが、今回再読してみて、氏の問題意識はむしろ、市民権の問題を「武装権」の歴史から捉えるというところにあることがわかってきた。 一七世紀イギリスの思想家ハリントンによれば、土地が君主や貴族によって独占されていた時代は傭兵や貴族が軍の主力となるが、共和制では土地を所有して自立した市民は自らの財産を守るため武装しており、こうした人

  • コモンズと能力 - heuristic ways

    以前デュルケムの『自殺論』(原著1897年)を読んだとき刺激を受けたのは、芸術・道徳・宗教・政治的信念・科学などの「超肉体的な」(肉体の要求からかけ離れた)人間活動の高度な形態は「集合的な起源」をもっているということ、「というよりはむしろ、この高度な形態が、われわれ各人に体現され、個人化されている社会そのものなのだ」という指摘だった。 …つまり、そもそもの初めから、個人の中には「社会」(集合的な力)が埋め込まれている。あるいは社会とは、個人を巻き込み、個人をこえて運動する「集合的生命」の流れのようなものである。 デュルケムは、「社会は物的な事実をもふくんでいて、しかもその物的な事実が、共同生活のなかである質的な役割をはたしている」と言っているが、デュルケムがこの「物的な事実」の例として、「家屋やあらゆる種類の建築物」、「交通・運輸路」、「道具や機械」、そして「書き言葉」などを挙げているの

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