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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (3)

  • ユリ熊嵐 2015-04-01 - 偽日記@はてな

    ●『ユリ熊嵐』、最終話。おそらく、この作品を駆動させている根的な欲動は、殺しても殺しても何度でも蘇ってくる(まさにゾンビのような)不気味なるるの弟(みるん)に最も直接的に現れている。それは、システムの側からみれば、透明さを維持するためにいくら厳重に配慮しても、必然的にわき出てきてしまう「スキをあきらめない」存在と重なる。システムは、その透明性を保つために必然的に排除されるべきスケープゴートをつくらなければならない。だが、そのような、システムの都合によって仕立て上げられる排除の対象と、内発的にわき出てしまう(自らそこをハズレようとする)「スキをあきらめない」存在たちとは異なる。前者はシステムの一部だが、後者はその破れであろう。 その不気味さと釣り合うように過剰にかわいく造形されているみるんの存在は、「スキをあきらめない」ことを正当化する根拠は別にどこにもないということを示してもいる。みるん

    ユリ熊嵐 2015-04-01 - 偽日記@はてな
    kujoo
    kujoo 2015/04/05
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●『境界の彼方』についてもうちょっと。 秋人は、(性的な嗜好として)「メガネ美少女が好き」なのか、「メガネ美少女だから(メガネ美少女の一人として)未来が好き」なのか、あるいはただ(他ならぬ)「未来」が好きなのか。勿論、そのすべてだろうと思う。秋人の未来に対する「感情−関係の仕方」は複数の層に分裂しつつ重なっていて、分裂した層の上を場面ごとに行ったり来たりしている。どの層が表面化しているのかは、その時々によって異なる。秋人が新堂写真館から未来のコスプレ写真を買うのは、それが「メガネ美少女のコスプレ写真(嗜好性)」だからだし、「メガネをかけている未来のコスプレ写真(タイプ/トークン)」だからでもあるし、たんに「未来の写真(固有性)」だからでもある。あるいは、秋人が、「要するにメガネが大好きです」と言う時、「メガネ」が好きだと言っているのか、「メガネ美少女である未来」が好きだといっているのか、た

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    kujoo
    kujoo 2013/12/21
    "キャラ間のフォーメーションの多彩さ"
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    ●『エヴァQ』をDVDで。劇場で観て以来の2度目。劇場で観た時と同様にかなり退屈したのだけど、退屈の原因はおそらく、60分くらいで語るべき話を90分に間延びして語ってしまっているからではないかと思った。話自体がつまらないわけではないのかもしれないと思い直した。 改めて観て気づいたのだけど、これはあからさまに「2」をめぐる話だということで、「2」による関係が破綻して、最後に「3」に至るということなのではないだろうかとも思った。 この作品には様々なペアが登場する(冒頭場面から、マリが「ひとりじゃないの」を歌っている)。中心にいるのはもちろんシンジとカヲルのペアなのだけど、ほかの人物たちもアスカとマリ、ミサトとリツコ、ゲンドウと冬月というペアとして登場するし、ネルフに対してヴィレという組織が出来ている。ヴィレのヴンダ―という戦艦(?)は二つの頭と一組(二)の腕(翼)を持っているような形態なのに

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    kujoo
    kujoo 2013/05/25
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