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哲学に関するkuroiseisyunのブックマーク (105)

  • 『分析美学基本論文集』刊行記念「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店ブックフェア(2015年9月8日~10月25日)

    このページは、森 功次さんプロデュースによるブックフェア 「分析美学は加速する」 をご紹介するために、WEBサイト「日曜社会学」の中に開設するものです。 ブックフェアは、勁草書房の企画協力を得て、紀伊國屋書店新宿南店5階にて2015年9月8日から10月25日まで開催されました。フェアの詳細については、紀伊國屋書店、勁草書房の特設ページもご覧ください: 紀伊國屋書店 新宿南店 勁草書房 フェア中、店舗では 選書者たちによる解説を掲載したパンフレットを配布しましたが、このページにはその内容の一部を掲載しています。 2015.12.30 解説文一つを掲載しました。これですべての項目が掲載されました。 2-B.「分析美学の基書」 (森 功次) 2015.12.24 解説文一つを掲載しました。 2-A.「分析美学史」 (西村清和) 2015.12.14 解説文一つを掲載しました。 3-G.「物語」

    『分析美学基本論文集』刊行記念「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店ブックフェア(2015年9月8日~10月25日)
  • ゲームはフィクションではない - 9bit

    ゲームをフィクションないしメイクビリーブといっしょくたにするなという話です。主張の内容は以下のとおり。 フィクションとゲームは、そのなかでの事柄が現実の利害関心から分離しているという点で似ている。 フィクションとゲームは、そのなかでの事柄が、想像されるものであるか、制度的に構成されるものであるか、という点でちがう。 現実的利害からの分離という特徴を指すのに「フィクション」という語をつかうのは、議論の整理という観点からいって致命的にまずい。 ケンダル・ウォルトンの『In Other Shoes』(2015)のKindle版が出てたので、とりあえず5章の「"It's Only a Game!": Sports as Fiction」だけ読んだ。 ウォルトンは、スポーツに代表される競争的なゲームを観戦することが、演劇のようなフィクションを鑑賞することと同じくメイクビリーブの側面を持っていると主張

    ゲームはフィクションではない - 9bit
  • ウィトゲンシュタインは究極のミニマリストか /「ウィトゲンシュタインの建築」 - アーキペラゴを探して

    1. ウィトゲンシュタインの建築とは 90年代後半には閉店していたと思うが、西部美術館の横に「アール・ヴィヴァン」というアート系書店があり、アール・ヴィヴァン叢書というB4版の冊子を出していた。各冊子は決まったアーティストやムーブメントを特集し、16号は『ウィトゲンシュタインの建築』だった。 アール ヴィヴァン16号 特集:ウィトゲンシュタインの建築 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの命題はあまりにも有名である。この言葉が含まれる『論理哲学論考』の草稿は、第一次世界大戦に従軍しながら書かれたと言われている。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia この冊子は、ウィトゲンシュタインが設計した実姉の家(ストロンボウ邸)について書かれた内容である。著者はバーナード・レイトナー。日語訳は建築家の磯崎新氏。表紙に書かれている説明の引用。

    ウィトゲンシュタインは究極のミニマリストか /「ウィトゲンシュタインの建築」 - アーキペラゴを探して
  • <私>の存在の比類なさと一神教

    永井均 @hitoshinagai1 中田考氏によれば、私は「一神教の真の意味を理解している数少ない日人」であるそうだ。そもそも一神教の信者でもないのに? 不思議な評価だが、ほかならぬ中田氏にこのように褒められると、なんだかちょっと嬉しい。『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』 (選書メチエ)も参照。 中田考 @HASSANKONAKATA @hitoshinagai1 」(永井均『<私>の存在の比類なさ』57頁) <私>とは唯一者であり、「最も重要な意味において隣人をもたない」もののこ とであった。「他の<私>とは、だから、矛盾表現であり、他の<私>の存在と は、一個のパラグックスでしかありえないはずなのである。

    <私>の存在の比類なさと一神教
  • 「論理学」ってなんですか。 

    池田信夫 @ikedanob 嘘にもとづく結論は、論理学的にはつねに真です(対偶をとるとわかる)。 RT @yamagen_jp: 論理的には、前提が嘘に基づいていても、結論が正しいことはあり得る。しかし、前提は嘘で無い方がいいですね。RT 嘘にもとづいて正しい結論が出ることはない。 2014-08-15 00:47:30

    「論理学」ってなんですか。 
  • 対戦リスト - 対戦型哲学史

  • 哲学の初学者にありがちな間違い - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    哲学の初学者にありがちな間違いのひとつをこの間思いついたので記しておく。哲学の場合、初学者ほど他の哲学者が素朴に見えるという現象がある気がしている。 例えば、プロの哲学者が何らかの原理Xみたいな前提を使うとしよう。 しかし初学者にはなんでこのXを認めないといけないのかがよくわからないので、Xを認めることが素朴に見える。非合理的な信仰やドグマのようなものにすら見えるかもしれない。 もちろん筋から言えば、Xを前提する側がXを使う理由を説明した方がいいかもしれない。しかしひとつの論文のなかで、すべての前提を説明することなどできないので、ごく標準的常識的な事柄であれば、特に議論なく前提するだろう。 もちろん当にドグマであるケースもあるだろうが、ここで考えているのは、Xを擁護する議論が別のところでなされていたり、合理的な理由があっても、初学者はそういう事情を知らないので素朴に見えるというケースだ。

    哲学の初学者にありがちな間違い - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
  • デイヴィッド・M・アームストロング『現代普遍論争入門』(秋葉剛史訳) - logical cypher scape2

    普遍についての現代形而上学の入門書 普遍論争というと中世スコラ哲学が連想されるだろうが、現代の哲学においてもなお論争の続いているトピックである。 普遍についての問いというのは、「トークンa、b、c……が同じタイプFであるとはどういうことか」というもの よくある例で恐縮だけど、リンゴとかトマトとか郵便ポストとか太陽とかはみな「赤い」。つまり、同じ「赤い」というタイプのトークンなんだけど、それは一体どうやったら説明出来るのか、と。 (ここでは「赤い」という性質を例に挙げたが、「aはbより前にある」とか「aはbを愛している」とかいった関係もまた書では同様に扱われている) これに対して、アームストロングが6つの立場(さらにもう少し細かく分かれるけど)について解説し、それぞれの道具立てや問題点を挙げ、比較を行っている。 各説の問題点などを比較考量した上で、その中でも最も伝統的な立場である普遍者説(

    デイヴィッド・M・アームストロング『現代普遍論争入門』(秋葉剛史訳) - logical cypher scape2
  • 戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書) 9点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

    3月27 戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書) 9点 カテゴリ:思想・心理9点 「哲学入門」というと、ソクラテスやカントなどの大哲学者の思想を解説したか、あるいは「私が死んだら世界は終わるのか?」、「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった、多くの人が一度は感じたであろう疑問から、哲学的思考に誘う、といったスタイルが思い浮かびますが、この戸田山和久の「哲学入門」はそれらとはまったく違います。 今までの哲学的な問に対して、科学的世界観によって、それに答えたり、あるいはそれを解体したりしながら、「神は死んだ(ニーチェもね)」という言葉とともに世界の謎を解き明かそうとしたです。 主にとり上げられる哲学者はミリカン、ドレツキ、デネット。デネット以外はあまり知られていない哲学者でしょう。しかもこのは400ページ超のボリュームがあります。というわけで「読みきれるのか?』と思う人もいるかもしれませ

    戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書) 9点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
  • 初心者のための記号論:目次

    <訳者より> テキストは英国のウエールズ大学のダニエル・チャンドラー博士による記号論への入門書のオンライン版であり、インターネット上で公開されているものです。このオンライン・テキストは評判が良く、1995年公開以来のアクセス回数は56万回(2004年2月時点)にもなっています。 訳者は2002年4月まで35年間、企業の研究所に勤務していたシステム分析が専門の技術者ですが、記号論のの中に、「システム」という言葉がたびたび出てくることから記号論に興味を覚え、インターネット上で調べていたところテキストと出会いました。記号論の主要トピックスをソシュールの記号学および構造主義をベースに、丁寧に説明しており具体的な例も多く観念的でないことから、記号論を勉強してみたいと思っている人、記号論の勉強を始めたがよく分からず挫折した人にとって良い参考書になるのではないかと感じました(残念ながら、日では、

  • 対戦型哲学史

    「対戦型哲学史」は、哲学者たちの間の対立や相関をノードとしたネットワークによりその思想を浮かび上がらせた、新しい方法の「哲学史」です。+url:kuru/PHILOFIGHTに続けてキーワードを入力すると、対戦型哲学史のみの検索が可能。 哲学史には、《新奇さ》を縮減する機能があります。 「目新しい思想」は、常に何ものかの繰り返しであり、コピーであり、焼き直しです。そのことはその思想の価値を(そんなものがあるとしたら、ですが)いささかも減じるものではありません。むしろその思想に「存在理由」のようなものがあるとしたら、それは「再び出現した」ことにこそ、求められるでしょう。 「対戦型哲学史」は、哲学者・思想家たちの間の「対戦」、すなわち対立、相関をノードとしたネットワークにより、思想家とその思想を浮かび上がらせた、新しい方法の「哲学史」です。 「対戦」とは、哲学史上の著名な「論争」であり、

  • カントとエスパーの対決記『視霊者の夢』

    世の中にあふれるの数々。どんなに読書好きであっても、その存在すら知らないような珍書(大作家の意外な作品、奇天烈なストーリー)はゴマンとある。そ んな「珍書」の蒐集に情熱と財産をつぎ込む古書山たかし氏が、目からウロコの珍書探訪記をお贈りする。連載タイトルの「稀珍快著探訪」は、大正時代に活躍 した、主に医学的見地に基づく奇譚の収集家・田中香涯の古今の珍談を集めた奇書『奇・珍・怪』にあやかってつけた。さあ、稀珍快著の世界へ行ってみよう! 第4回は、あのカントを取り上げる。カントと聞けば恐らく大多数の方は、哲学界の王者というイメージを思い浮かべるだろう。 実際、新たな解釈を踏まえたイマヌエル・カント(1724-1804)の新訳は今なお刊行されており、現在でもアクチュアルな哲学者であり続けている巨大な存在だ。 しかしどんな人でも初めから大成していた訳はなく、実績・人脈・声望をかちえるまでには苦労を

    カントとエスパーの対決記『視霊者の夢』
  • 「認知論的映画論批判」 石田美紀

    書評 リチャード・アレン著「映画を見ること」"Looking at Motion Pictures" (リチャード・アレン、マレイ・スミス共編『映画理論と哲学』R. Allen, M.Smith, Film Theory and Philosophy (Oxford: Oxford U.P.,1997=1999)に収録)―分析哲学が映画学にできること、または分析哲学の挑戦ー 石田美紀 はじめに 「アメリカのアカデミズムが誇る人文系の学問領域を挙げてくれ」。こんな質問に出くわすなら、その答えに次の学問領域があがったとしても、多くの人は困難をそう覚えず、納得してくれるのではないだろうか。映画学と分析哲学である。前者の理由はいわずもがなであるが、あえて述べるとすれば、映画アメリカ文化が真っ先に世界に誇るものであり、アメリカの多くのの大学は映画製作だけでなく、映画歴史的・理論的に研究する映画

  • 『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学』西村義樹・野矢茂樹(中央公論新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「哲学と言語学の幸福な対話」 今年は現代言語学の祖フェルディナン・ド・ソシュールの没後百年。大学で言語学を勉強したわけではないけど、『一般言語学講義』を読むゼミに参加したのは楽しい体験だった。担当の先生がよく言っていたが、そもそも言語とは何かということを、同じその言語で語るということが、どうしてもむずかしい。ソシュールはその問いのまわりをぐるぐる回って、結局自分では「一般言語学」の構想を完成させることができなかった。没後に弟子たちがまとめた(恣意的な編集を多数含む)講義録が二十世紀の思想に多大な影響を与えるわけだが、百年たってもソシュールが立ち止まったところに何か大切なものがあるような気がする。 の世界から見ると、言語は面白い対象なのに、「言語学」のというと、ますますマニアックな、大学で習わない限りは縁遠いものになっていそうなのが残念だ。ソシュールは思想に

    『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学』西村義樹・野矢茂樹(中央公論新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek

    須藤靖・伊勢田哲治 (2013年6月30日刊行,河出書房新社[河出ブックス・057],東京,301 pp., 体価格1,500円,ISBN:978-4-309-62457-0 → 目次|版元ページ) 【書評】※Copyright 2013 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved 科学と科学哲学との重層的すれちがい いささか口の悪い悪童(=物理学者)と達人の尊師(=科学哲学者)が重層的にすれちがう.全編を通じて科学者と科学哲学者との長い「対話」が続くのだが,相対しつつも目線がちがう方向を向いていて,なお言葉が絡みあうフシギな流れが楽しめる.科学者と科学哲学者が「いかに対話できるか」ではなく,「いかにすれちがえるか」が実感できる. おそらく「科学」というグローバルな総称ではひとくくりにできないほど,個々のローカルな「科学」および「科学者」のバックグラ

    『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek
  • ロバート・ステッカー『分析美学入門』 - logical cypher scape2

    その名の通り、美学の入門書であり、複数のトピックについて基的な議論が紹介され、各章末には練習問題と参考文献が付されている。 また訳注も充実しており、時に、いわゆる分析哲学における議論の進め方についての一般的な解説とでもいうべきようなものまで書かれている。 あと、表紙のデザインがよい。 ちなみに原題は、Aesthetics and the Philosophy of Art: an Introductionであり、分析美学の名はない。「現代英語圏における美学と芸術の哲学」といった方がよりよいのかもしれない(とはいえ、近年では非英語圏でもこのスタイルでの研究があるということで、この言い方も正確ではない)。 さて、美学と芸術の哲学ということで、書も二部構成となっていて、一部が美学、二部が芸術哲学となっている。 Ch.1 はじめに 第1部 美学 Ch.2 環境美学――自然の美 Ch.3 〈美的

    ロバート・ステッカー『分析美学入門』 - logical cypher scape2
  •  「科学を語るとはどういうことか」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

    科学を語るとはどういうことか ---科学者、哲学者にモノ申す (河出ブックス) 作者: 須藤靖,伊勢田哲治出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2013/06/11メディア: 単行(ソフトカバー)この商品を含むブログ (20件) を見る 書は物理学者須藤靖と科学哲学者伊勢田哲治による科学哲学を巡る対談集である.実際には対談時のやりとりをベースにして,双方が調整しつつ加筆修正を加えており,メリハリの利いたきびきびとした対談に仕上がっている.帯を含めた装丁も大胆で,思わず手に取りたくなるうまい作りだ. 対談にいたる経緯は須藤の「はじめに」と伊勢田の「終わりに」にそれぞれ書かれている.須藤は因果を巡る「あまりにも的外れ」な議論が科学哲学においてなされていることを知り,その後に知り得たことも含めた科学哲学についての批判的な講義を駒場において行う.その講義案を伊勢田がネットを経由して閲覧し,

     「科学を語るとはどういうことか」 - shorebird 進化心理学中心の書評など
  • ジョン・サールのインタビュー記事: Day Tripper Diary by Monday Ota

    2010年10月(36) 2010年09月(55) 2010年08月(46) 2010年07月(50) 2010年06月(24) 2010年05月(50) 2010年04月(43) 2010年03月(55) 2010年02月(34) 2010年01月(31) 2009年12月(46) 2009年11月(25) サールとの対話 Conversation with Searle 2001 http://www.scribd.com/doc/21968391/%E7%BF%BB%E8%A8%B3%EF%BC%9AConversations-with-John-Searle という翻訳がWEB上で読むことができる。 サールなんて知らねえよ、というかもしれないが、例のサール=デリダ論争のサールである。 前からこの文書の存在は知っていたが、なんで紹介したかというと次の事件に由来

  • なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia

    「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、 「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」 などと問われる場合もある[注釈 2]。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問

    なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
  • 音楽哲学論考 : 音楽について「書く」ということ

    2013年01月02日09:00 カテゴリ音楽一般 音楽について「書く」ということ 新年1発目の記事があまりにもアレな内容でしたので(笑)、ちょっと2発目はマジメ路線でいきたいと思います。テーマは音楽と言語。ちょっとデカ過ぎですか(笑) G・トラシュブロス・ゲオルギアーデスによる同名の著作(『音楽と言語 (講談社学術文庫 (1108))』【Amzon で見る】)もありますが。まあでも、全く文献的裏付けのないままに、思いつくままに、あ、アレですね、エッセー的な感じでですね、書きますので。気軽に読んでいただければと思います。 1.「音楽と言語」の関係における問い 音楽について話す、書く。つまり、音楽を言語化という方法で以って記述する。ということ。このことについては現在に限らず、———おそらくは音楽が始まったのとほぼ同時的に———どのようにしてという問いが常につきまとってきたことでしょう。つまり