12月21日。成田空港第2ターミナル。人もまばらな午後9時の出発ロビーに、浦和MF阿部勇樹が現れた。「2010年のW杯直前に、グラーツでイングランドと親善試合をしたときに、現地で会って以来です
2000年、2004年とアジアカップを連覇していた日本は イビチャ・オシムさんに率いられて2007年の大会に臨むことになった。 だが準決勝でサウジアラビアの後塵を拝し 3位決定戦で韓国と対戦することになる。 試合はスコアレスドローのまま120分間を終え PK戦は5人ずつ終えて誰も失敗しなかった。 そして運命の6人目、羽生直剛の蹴ったボールはGKに弾かれてしまう。 試合後、羽生は真っ青な顔をしていたが逃げることなく報道陣に対応していた。 PK失敗が羽生に大きな傷になっていたことは あのとき傍から見ていてよくわかった。 あのときから10年が経った。 そろそろあの話が出来るようになっているのではないか。 だが「アジアカップの話を」と切り出したとき、 羽生の顔は悲しみと苦しみで大きくゆがんだ。 それからしばらくして、いつもの表情に戻ると 羽生はあのときの苦しみの理由をゆっくりと話はじめた。 アジア
現地発、クロアチア・サッカー報告(38) 現地メディアによる「オシム語録」 イヴィツァ・オシムが何かを語る時、日本人だけでなく、クロアチア人もこぞって耳を傾ける。 ここでは「オシム語録」という言われ方はないが、クロアチア・メディアもこぞってオシムの口から発せられるコメントを求めている。彼が率いたユーゴスラビアは崩壊し、それぞれの民族が憎しみあう中、「ユーゴ最高の名将」というオシムの評価はどの民族でも揺るぐことはない。オシムはサラエボ出身のクロアチア人だが、旧ユーゴスラビアの国も彼を代表監督に、またクラブ監督に迎えたがっているのが事実。しかし、最終的に彼が選んだのは日本代表監督のポストだった。 オシムは日本に渡ってから3年半の間、クロアチアのメディアに対して多くのコメントを残してきた。母国のメディア相手だとリネカーのように口を滑らす人物もいるが、オシムにはブレはない。常に抱いている望郷
いよいよ、くるべき時が来ました。 まえまえから、イヴィツァ・オシムとの別れはいつどのような形であっても 寂しさを伴うものになるだろうとは思っていたのだけれど。 後付けで言わせてもらえば、「御大が率いる日本代表」には すくなからぬ思いを馳せてはいたのです。 一人のジェフサポとして複雑ではあるけれど、 いつかその日が来て、オシムが代表をまかされることは (本人の言う通り)ジェフでの功績を認められてのことなのです。 ジェフのサッカーが日本代表に必要であることの証明なのです。 だから、代表に選手を送り出すのと同じような気持ちで監督を送り出すことは、 ジェフサポの中には寂しさと同時に誇らしさももたらすものだと考えています。 個人的には、イビツァ・オシムは監督としての手腕はもとより、 人間としても多いに尊敬しうる「教師」であり、 その人物が選び、鍛えるサッカー日本代表については 久々に自分がみたいサッ
クロアチアのザグレブに在住する長束恭行が、撮影した写真と共にクロアチアのサッカー情報を紹介するブログです 全ての著作権は長束恭行に属します 7月2日のスポルツケ・ノヴォスティ紙にイヴィツァ・オシムのインタビュー(写真)が掲載されました。同紙のクロアチア人記者が電話インタビューしたものです。昨日、日本代表監督に合意したと日本国内では報道されており、内容的には合意前のインタビューとなります。 -イヴィツァ、とうとう貴方は新日本代表監督になったのか? 「いや、まだだ。なるかどうかは判らない。」 -日本人(サッカー協会)は代表に引き受けるかどうか直接尋ねたのではないのか? 「尋ねたよ。日本サッカー協会の代表団がグラーツにいる私のところへ数字が入った契約書も持ってきた。契約書には詳細に私へのルールが列挙され、また義務も書かれていたよ。」 -提示された契約には満足しているのか? 「している。」 -なら
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