→紀伊國屋ウェブストアで購入 「本書は当初、日本人読者向けの出版物として企画され」たが、1993年に英語の原文がフィリピンで出版されたままになっていた。その「序」で、編者のレナト・コンスタンティーノは、つぎのように述べている。「日本人はこの間の年月、他国を占領した自国の軍隊が犯した残虐行為と罪について知ることを故意に妨げられており、かかる歴史の意図的な歪曲ゆえに、先の戦争においては侵略者ではなく犠牲者であったという考え方が再び広まっているという点で、本書の物語は日本人が自分たちの過去と向き合うのに役立つであろう」。 そのために「執筆者四人は、日本人占領者と直接に触れ合った体験をもつ人々が何を感じたのかを後世のために残そうと、共通の努力をした。その記述は年齢や職業、地域を網羅している」。「ここに収められた四論文は全て、公的史料では決して伝達できない暖かい人間性にまつわるフィリピン史の重要な一
→紀伊國屋ウェブストアで購入 植民地支配は、解放されて独立すれば終わりではない。それをもっとも如実に感じているのは、歴史研究者だろう。植民地時代を支配された側の視点で書くだけの充分な史料がないだけでなく、多くの史料が植民地支配を正当化するもので、客観的な歴史叙述をする妨げになっているからである。フィリピン人のように植民地支配を受けた者が、自分たちを主体的に描く歴史叙述に苦悩しているなかで、外国人が書くという行為を、著者岡田泰平はつぎのように「あとがき」冒頭で述べている。「外国人である私がフィリピン人を書き表すという本書の営為は、フィリピン人を傷つけるものであると感じている。あらゆる批判を受け止めていきたい」。 本書では、「アメリカ植民地期フィリピン社会を、教育という営為を中心に描きだす」。この「二一世紀の現在に直結する課題」を考察する端的な理由を、著者は「近代植民地主義の評価が現代世界にお
→紀伊國屋ウェブストアで購入 タイトルをみて、まず本書を読みこなすためには「資源化」の意味を理解しなければならないと思った。つぎに副題の「ベトナム」の後の半角ハイフンが怪しく、気になった。そして、巻頭の4頁にわたるカラー写真の各頁のタイトル「教育に織り込まれた「伝統」と近代」「国民国家建設と近代化:より良いベトナム「国民」となること」「自己実現のための大学進学」「民族寄宿学校の寄宿生活」とともに、学生たちの笑顔と真剣な表情の意味がわかれば、著者、伊藤未帆と同じ目線で本書を読むことができると思った。 本書の目的は、「はじめに」でつぎのように語られている。「公的な枠組みとして制度化された「民族」をめぐる、さまざまな主体性のあり方について、ベトナムの「民族寄宿学校」という学校制度を事例に考えてみることである」。そのために、著者は、「北部ベトナム地域を中心としたフィールドワークで得られたデータとそ
→紀伊國屋ウェブストアで購入 イスラームには、ウンマという共同体がある。それは、世界中のイスラーム教徒を包み込むボーダーレスでグローバルなものである。かつて、そしていまもマッカへの巡礼が、ヒトもモノも、もちろん思想も、イスラーム教徒を結びつけている。だが、こんにちは、インターネットを使って容易に越境し、人びとを結びつける。 著者、保坂修司は、本書の目的をつぎのように述べている。「中東で生まれたイスラームという宗教と、欧米を起源とするインターネットなどの情報通信技術の関係について考えてみたい。イスラームという教えが、インターネットをどのように変質させていったか、そしてインターネットがイスラーム社会やイスラーム教徒(ムスリム)をどのように変質させていったか、その化学反応の過程をみていく」。 そして、「その議論のなかで柱となる二つの概念をまず説明」している。「一つは「サイバー・イスラーム」という
→紀伊國屋ウェブストアで購入 本書の要約は、カバー見返しに、つぎのように要領よくまとめられている。「従来「琉球処分」は日本史の狭い枠内で、近代的な国家形成・民族統一・国民形成などの一環として解釈されてきた。「琉球藩」設置は、琉球人遭難事件を口実になされた一八七四年の台湾出兵を可能にするための準備措置だったとされ、日本の大陸への膨張志向の初期的発現と見なされてきた」。「本書は広範な史料・文献を渉猟し、「琉球藩設置」の歴史的真意を解明し、台湾出兵との因果関係に関する従来の謬説を糺す。併合する側の視点と併合される側の視点を往還する複眼的考察に立ち、琉球および朝鮮の併合という「二つの併合」の類比性と関連性に着目する。東アジアの伝統的中華世界秩序の衰退から植民地帝国日本の擡頭への新旧交替という大きな脈絡から、中国・朝鮮・台湾・日本を見渡す視野のなかに「琉球併合」の史実を据えた画期的研究」。 本書は、
→紀伊國屋ウェブストアで購入 この事典は、項目の性格からすくなくとも二通りの利用の仕方がある。ひとつは、これまでの研究成果を理解するために読む、ストックの情報としての利用の仕方である。もうひとつは、現状を理解するために読む、フローの情報としての利用の仕方である。前者の有用性については語るまでもないだろうが、後者は今後どう変わるか、何年後かに読むとまた違った読み方ができる楽しみもある。加えて、巻末の28の付録(4つの法令、18の統計、6つのアソシエーション)が役に立つ。眺めているだけでも、いろいろイマジネーションがわいてくる。 本事典の重要性は、今日のグローバル化のなかで人の移動が活発になってきていることから容易に想像がつく。「刊行にあたって」では、つぎのように説明している。「<人の移動>を包括的にとらえて総合的に研究することは、このような時代にあって日本の現代および近未来の人口構成に起因す
→紀伊國屋ウェブストアで購入 カバーにはかわいいイラストがあしらわれ、副題は「18世紀の教育パパ、天才音楽家を育てる」となっている。思わず「楽しい娯楽本か?」と期待してしまいそうだが、内容はとても手堅い、立派な研究書である。とは言うものの、読んでいて眠くなるようなことはない。モーツァルト父子の間で交わされた数多くの手紙を軸に、モーツァルト家における「音楽をビジネスとしての捉えるための心構え」が生き生きと語られているからだ。 モーツァルトに関する書籍も数多い。先月紹介したベートーヴェンの交響曲第9番にまつわる書籍(『〈第九〉誕生』)の時と同様に国立音楽大学図書館でタイトルに「モーツァルト」を含む和書を検索してみたところ570冊、「Mozart」を含む洋書は973冊がヒットした。洋書はモーツァルト、ベートーヴェンともほぼ同数だが、和書の数ではモーツァルトがベートーヴェン(379冊)を凌駕してい
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「弔いの邪推」 わたし自身の職業柄、無関心ではいられない一冊が登場した。精神医学と臨床心理学におけるそれぞれの巨匠、中井久夫と河合隼雄に触れているというのも、興味を惹く大きな要素だった。それにしても、表紙を占める白衣はなんだ?視覚人間であるわたしは、易々と表紙に惑わされる。人肌を感じさせないスーパー・クリーンな白衣が、無地の空間に吊るされている。吉田篤弘・浩美夫妻のデザイン。気のせいか女性的な佇まいだが、良く見れば合わせは左前で、男性用の白衣のようだ。眺めるほどに、それまで感じなかった人肌を感じるようになってくる。まさか、吉田夫妻が、投影法(心理テスト)を意識したはずはあるまい。邪推だろう。 とは言うのもの、この白衣、読前と読後で印象が違ってくる。読後には、物哀しさが漂ってならない。それというのも、全編を通じて、どうにも喪失の気配がしてならないからだ。慟哭でこ
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「9・30」と聞いて、すぐにわかる人はそれほど多くないだろう。それが、「世界を震撼させた日」であると言われても、怪訝に思うだけである。本書の核心は、そこにある。これほど重要な日であるにもかかわらず、事件が起こったインドネシアでも多くが語られず、それが日本を含む世界に大きな影響を与えたことがほとんど知られていないのはなぜか。本書は、そのなぞに挑もうとしている。 9月30日に、なにが起こったのか。本書表紙見返しに、簡潔にまとめられている。「一九六五年一〇月一日未明に、ジャカルタで軍事政変が勃発、半年後の一枚のスカルノ大統領が発したとされる命令書により、権限はスハルトへと移った。中国では文化大革命が起き、東南アジアにアセアンが成立し西側反共主義陣営の結束を固め、日本は大規模な経済進出の足掛かりをつかんだ。政変を主謀したとされたインドネシア共産党は非合法化され、党員は
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「再び「オタク・オリエンタリズム」を超えるために」 本書は、2012年2月28日の書評空間でも詳細させていただいたオタク文化に関する論文集『Fandom unbound : Otaku Culture in a Connected World』(Yale Unversity Press)の日本語版にあたるが、大幅な加筆が施されており、ぜひ改めてここで評しておきたい。 サブタイトルにもあるように、本書では今日隆盛を極めるオタク文化について、社会学的な理解を深めるため、「歴史」「空間」「交流(=コミュニケーション)」といった三つの視点からなるそれぞれパートを設けており、さらに日米の一線級の研究者たちの論文を収録したという構成については、英語版とあまり変わるところはない。 だが、日本語での読者を特に意識して行ったのは、今、日本社会においてオタク文化を考えることの意義
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「活字離れ」が心配される今どきの小学生や中高生にとって、活字を読んで文脈を理解するのはしんどい事なのだろう(もちろん大学生以上も例外ではない…)。必要に迫られない限り、文字ばかりの本を自発的に読むことは、あまり期待できそうにない。受験の課題にもなっている長文読解対策あたりが、本と出会える限られた接点なのかも知れない。 幼少の頃から「本の虫」といわれる人もいるが、私はそうではなかった。「読む(見る?)」といえば漫画。漫画だけは寸暇を惜しんで愛読した。私が幼かった時代にも漫画週刊誌はたくさん発行されており、友人間のコミュニケーションのためには押さえておくべきポイントのひとつだった。『紫電改のタカ』『おそ松くん』『鉄腕アトム』『サイボーグ009』『エイトマン』『あしたのジョー』その他の作品は、いまだに忘れることができない。 そうした漫画と並行して読んでいたはずの「活
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「父という謎」 運営者の紀伊國屋書店さんのご事情でまもなくこのサイトは閉鎖されるとのこと。評者の欄も少しずつ店じまいモードになるかと思う。これまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。 今回とりあげるのはやや珍しい「評伝」である。評伝の対象は著者の実父。しかも父が自らの父――つまり著者にとっては祖父――について語った記述も出てくる。富士川家は游、英郎、義之、と代々続いた学者の家系なのである。 著者の富士川義之はワーズワスからラスキン、ペーター、ナボコフ、さらには現代作家や日本文学まで翻訳や研究を行ってきた英米文学者である。その父英郎はリルケやホフマンスタールなどドイツの詩人や、江戸漢詩の研究で知られた人。さらにその父の游は『日本医学史』などを著した医学史研究の大家だった。実は医業を営んでいた游の父の雪(すすぐ)もたいへん教養の深い人物だったようで、こう
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「精神医学批判をロード・ムーヴィーする」 アメリカの精神科診断基準であるDSMを批判する著作が、本国アメリカにおいても少なくないことは、今までも機会あるたびに書いてきた。だが、本作の出来映えは異色だ。鹿爪らしい論評はなく、取材に奔走する経過がロード・ムーヴィーのように繰り広げられて、飽きることがない。反精神医学の旗手R.D.レインの息子が登場して、父親のアルコール依存やキングスレイ・ホールの実情を語ったり、DSM‐Ⅲの生みの親スピッツァーがインタビューに沈黙したり、サイコパス・テスト作成で名高いロバート・ロスが頻々と出没するというだけでも、ワクワクしてしまう。この高揚はゴシップ記事に浮かれる感覚と寸分の違いもない。わたしのなかの俗物根性が、あられもなく暴かれる。奇妙な気分だが、悪くない。 とはいえ、本書は、三面記事を並べたものとは程遠く、真面目なテーマを扱って
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