仏教史を研鑽されているのであれば、仏教の大綱をある程度ご存知かと思われますが、釈迦は本来、その真意である法華経のみを説くつもりであったのが、説き始めたら、その当時の人々の機根、つまり、その仏説を受け入れるための理解能力が劣っていたため、すぐにその本意、真意を説くことを止め、あたかも幼子に物事を教えるように例えや方便等を種々に多用して、順々と仏法の何たるかを教えていって法華経を理解できるレベルまで人々を化導して行き、最後に法華経を説いたのです。 それでそれまでに説いたものが時系列的に華厳経や阿含経、大日経、阿弥陀経、般若経等々と様々な教経となって数多く残ったのですが、所詮、それらは法華経に導き、理解させるために説かれた一時的な仮りの教えでしかなく、それらを依り所としても何の実利実益もなく、それどころかかえって法華経をないがしろにする悪しき行為となり、実害実損を被ることとなるので、このことを知