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philosophyに関するlieutarのブックマーク (3)

  • 日本の俗流クオリア論を撃破する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    はクオリアなる言葉が一般にも知られている奇妙な国だが、しかしその一般的なクオリア理解はもともとの哲学的なクオリア理解とはあまりに異なっていてとてもおかしい。日でクオリアなんて用語が流行ったのは、小泉旋風真っ只中のポピュリズム時代でのある脳文化人Mの活躍のせいなのだが、未だにその後遺症はあちこちに残っている。それを正すのがこの論考の表向きの目的だ*1。 もうひとつの目的は、心の哲学における機能主義を正しく理解してもらうことだ。今でも機能主義は心の哲学どころか認知科学でも主流の立場だ。日ではごく少数の例外を除くと心の哲学における機能主義がろくに受け入られておらず、まともな擁護どころかましな解説さえろくに見かけない。まともな解説も理解もされてないから、まともな批判がされているといえない。クオリア概念はもともと機能主義批判として現われたのだから、クオリア解説と機能主義解説をセットにするのは

    日本の俗流クオリア論を撃破する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 脱構築 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月) 脱構築(だつこうちく、仏: déconstruction、英: deconstruction)は、「静止的な構造を前提とし、それを想起的に発見しうる」というプラトン以来の哲学の伝統的ドグマに対して、「我々自身の哲学の営みそのものが、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成している」とする、20世紀哲学の全体に及ぶ大きな潮流のこと。 19世紀まで、論理整合性を重視する英米哲学と、主観性や社会性を問題にする独仏哲学は、それぞれ独自に議論を重ねてきたが、この問題に至り、活発に相互参照と議論交流が起こる。 しかしながら、脱構築という思想においては、「脱構築という思想そのものもまた、つねに脱構築され、つねに新たな意味を獲得し

  • TFK2: ブリコラージュ的知性について

    ■ 自我とオムレツ 平川くん、どうも9からあと、間を空けてしまってすみませんでした。 極楽麻雀でご一緒でさんざんしゃべったせいで、「間をあけた」という実感はないんですけどね。 しかし、三月は忙しかったです。 極楽スキーに極楽麻雀に極楽合気道の「極楽三連荘」でしょう。 その間に「死のロード」(二日間に講演1、対談2、インタビュー2、宴会2…)がありましたし。 中旬には二週続けて橋治さんと高橋源一郎さんと対談したのがヘビーでした。 最大限まで知的テンションを上げないとあの方たちの超高速で展開するお話にはついていけませんから。対談が終わったあと、脳の緊張が解けて「じゅるじゅる」と音を出して崩れてゆくのがわかりました。 ほんとに。 平川くんも日のトップマネジメントの方々とお付き合いがあるからわかると思いますけれど、あのレベルの方たちと話すときって、「手持ちのカード」を並べて見せただけではまるで

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