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2009年10月17日のブックマーク (3件)

  • 俺の昔話でもしてみるか

    http://anond.hatelabo.jp/20090831052505 あれは10年くらい前か。 当時「児ポ法改正反対運動」ってのがあって、俺もそれに参加していた。 ●「児ポ法」が改正されたら、どんなマンガであっても(「ドラえもん」であっても!)国家権力が恣意的に取り締まることが出来る。 ●自民党は「児ポ法改正」なんて言ってるが、実態は将来の表現物規制への布石に過ぎない! ●その裏では、オタクを嫌っている創価学会、統一教会、PTA、主婦連、日ユニセフ等が日政府に圧力をかけて、自分達の気にわない俺たちオタクを排除しようとしている。 ●この法案が通れば、どんなマンガであっても警察が恣意的に「これはポルノだ」と言い張れば逮捕投獄が可能になる。 こんな事がまことしやかに喧伝され、俺もそれを無邪気に信じていた。 俺にとって、マンガやアニメを奪われることは、即ち俺自身を否定されることにも

    俺の昔話でもしてみるか
  • 福本勝清氏によるアジア的停滞論に関する連載 - 梶ピエールのブログ

    前回に引き続き、むっちゃ刺激的で面白いです。平野義太郎と大上末広がこのように批判されることに全く異論はないが、だとすると尾崎秀美などはどのように位置づければよいのだろうか? http://www.21ccs.jp/soso/chinateki/chinateki_32.htmlより。 例として戦前の日主義論争(封建論争)を挙げよう。互いに激論を展開した両派、講座派も労農派も発展論的な視角をとっていた。だが、労農派を停滞論だと批判するものはいないであろう。誰も、戦前日の農村にアジア的な特殊性を見いだした猪俣津南雄を停滞論とは批判しないだろう(『農村問題入門』 1937年)。筆者は、日主義の停滞的側面を強調した講座派理論は、ある意味で「日的停滞論」と呼ぶことができると考えているが、それは多分に比喩的な意味において(アジア的停滞論の連想から)そうなのであり、それが何か、アジア的停

    福本勝清氏によるアジア的停滞論に関する連載 - 梶ピエールのブログ
    lotus3000
    lotus3000 2009/10/17
    未だ進歩に対する距離感がうまく取れない。
  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

    ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point