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philosophyに関するlotus3000のブックマーク (10)

  • 敵は「自然」 - 地下生活者の手遊び

    俺定義でおこたえします - 地下生活者の手遊びのコメ欄でやりとりしていて、思ったことを簡単に。 事実と価値(当為)を分離せよ、「である」と「べき」は違う、ザインとゾルレンを区別せよ、 などといわれますにゃ。実に広く有用な区別ですにゃ。特に、倫理・道徳や法(規範)を考えるとき、疑似科学のことを考えるとき、などには必須の考え方ですにゃ。 まあ、このあたりについてはみにゃさまもおわかりのことと思われますにゃ。 ところで、【自然】というのは、事実なのだろうか? それとも価値? 事実と価値の分離に意識的な論者は、あまり「〜は自然だ」という言い方はしにゃーと思う。「〜は一般的な傾向としてある」などという言い方をするのではにゃーかな。 日語で、「〜は自然だよ」というとき、「ものごとが来あるとおり(大辞泉)」という意味で使いますにゃ。英語においても、It is natural that 〜 と書くとき

    敵は「自然」 - 地下生活者の手遊び
    lotus3000
    lotus3000 2017/12/02
    ここら辺ブクマ。
  • ララビアータ:アダムの罪 - livedoor Blog(ブログ)

    『創世記』によれば、神はアダムの前に掟を示し、「善悪を知る木の実をとってべてはならない」と告げたとされる(2・17)。それにもかかわらずアダムは、蛇の誘惑に乗せられたイヴとともにその木の実をべたとされる。誰でも知っている有名な逸話である。キルケゴールも、『不安の概念』においてこの罪へと至る事情を分析しているが、この『創世記』の記述自体は前提されていて、そこに何の疑問も付されていない。 しかし前々から、どうにも腑に落ちない所があると感じてきたので、それについて記しておきたい。 一般的理解によれば、神はあらかじめアダムに何を為してはならないか、何を為してよいかはっきりと示している。それにもかかわらず、アダムはその掟に背いたので罪を犯したのだ、ということになる。しかし、それなら、どうしてこれが「善悪を知る木」と呼ばれるのであろうか?その実をべる前に、アダムは神から善と悪とを知らされているこ

  • 加害者の覚悟 - 世界線航跡蔵

    「 アイヌ差別についてのブクマを全力でまとめてみた 」を読んだ。そして、コメント欄にある、「で、どうすりゃいいんだ?」との意見には考えさせられる。 何をすれば良いのかという疑問 一度形成された差別を解消する簡単な方法なんかない。弾圧や後ろ指さすのに積極的に荷担するのは論外。同化も、それこそが問題であったのに。アイヌがアイヌでいるということを許さず我々と同じであることを要請するということが。アファーマティブアクションは、有効な面はあるものの、得てして無用な差異意識を固定化したり加害者側の被害者意識を高める。まー、利権の温床になるケースもある、とは思う。それよりも利権があるという陰謀論で差別を正当化する虞のほうが大きいと思うけど。問題に無関心でいれば、それは差別者を側面から支援することになる。ましてここまで同化が進められてしまった民族問題に関して言えば、無関心であることはこのままアイヌというも

    加害者の覚悟 - 世界線航跡蔵
  • 『民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)』

    この前、8月12日 朝日新聞に 民主主義について俺が思うところを述べたインタビューが載りました。 その時の考察の出発点になっているのが、 次のエッセイです。 去年の夏に『文學界』に掲載していただいたものです。 インタビューではマイルドにするために 民主主義そのものへの疑問は述べませんでした。 「民主主義」と言うならこれぐらいのことはしないとダメだ という口調で書きました。 このエッセイでは そもそも民主主義でいいのか という疑問を提示しています。 よかったらお読みください。 民主主義を眺めるミネルヴァの梟(『文學界』2010年9月号掲載) 國分功一郎 ミネルヴァの梟は夕暮れ時に飛び立つ。 ミネルヴァの梟が飛び立てば、夕暮れ時が訪れる。 ミネルヴァの梟は飛び立った。夕暮れ時は既に訪れている。 最近、出色のレーニン論『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)を出版した白井聡氏と対談する機会を得た。

    『民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)』
  • 『スピノザに近づいてみる ——「倫理」と「思考」のための60冊+α(再掲)』

    スピノザに近づいてみる ——「倫理」と「思考」のための60冊+α(再掲) | Philosophy Sells...But Who's Buying? 夏休み読書リスト 追加です。 こちらは今年の五月に 紀伊国屋書店新宿店の 「じんぶんや」というコーナーでやらせていただいたフェア。 こちらをご覧ください。 このリストは これまでに上げてきた読書リストの中では 比較的専門性が高いものになっています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スピノザに近づいてみる ——「倫理」と「思考」のための60冊+α—— 國分功一郎選 スピノザ『エチカ』岩波文庫 言わずと知れたスピノザの主著。はっきり言って、冒頭から読み始めたために脱落するひとが多い! 確かに「自己原因とは、その質が存在を含むもの 云々」なんて始まってたら、なかなか読み進められません。ですので、まずは第四部から、特に

    『スピノザに近づいてみる ——「倫理」と「思考」のための60冊+α(再掲)』
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    2024夏休み旅行 神戸・2日目【前編】 zfinchyan.hatenablog.com ↑1日目はこちら 6:50 わたしと夫だけ先に起床 前日に買っておいたお芋のパンで朝ごはん 昨日の疲れからか、なかなか息子たちが起きてこなかったので、ゆっくり寝かせてから10:00にホテルの下にあるプレイゾーンに行って、パターゴルフやバス…

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  • 学問の分類と分化の歴史など

    渡邊芳之 @ynabe39 しかし社会科学はなぜ social sciences なんだろう。natural sciences とはいわないのに。 渡邊芳之 @ynabe39 いまscience と呼ばれてるものは19世紀までnatural philosophy とかnatural history とか呼ばれていた。RT @lingvisticae: 工学や現代物理学の多くは「自然」に世界に存在するものを相手にはしていないのに「自然科学」という…

    学問の分類と分化の歴史など
  • 北米社会哲学学会報告2/結婚制度、リベラリズム、中立原理の限界

    前回に続き、北米社会哲学学会@ポートランド大学からの報告。会場で取ったメモは全部で35ページあるのだけれど、前回の記事ではたったの5枚分しか紹介しきれなかった。このままのペースだと何回続くか不安だけど、うまいことまとめて5回くらいにおさまるといいなぁと思っている。ていうか、もともとはそれぞれの発表について1段落でまとめるつもりで書き始めたのだけれど、哲学の発表を1段落にまとめるのはさすがに無謀だった。 というわけで今回取り上げるのは、「結婚」をテーマとした二つの発表。まずは、これぞ哲学という感じにイマヌエル・カントの倫理理論と結婚観を「メール・オーダー・ブライド」と比較しつつ批判した、セントラル・ワシントン大学哲学助教授でカントを専門とする Matthew Altman の発表。メール・オーダー・ブライドとは、先進国の独身男性向けに、アジアや東欧・旧ソ連などの国の貧しい女性を結婚相手として

    北米社会哲学学会報告2/結婚制度、リベラリズム、中立原理の限界
  • 岩波講座哲学12『性/愛の哲学』(1) - charisの美学日誌

    [読書]  岩波講座哲学・第12巻『性/愛の哲学』(1) 2009年9月刊 戦前から続く岩波哲学講座だが、今回、『性/愛の哲学』というテーマの巻が登場した。フロイト、ラカン、フーコー、バトラーなど、20世紀には「性」が哲学のテーマとして前景化し、ジェンダー研究も活性化したことが背景にある。全体を通読した印象では、収録論文はやや玉石混交か。その中では、小泉義之「性・生殖・次世代育成力」が鋭く、また田村公江「性の商品化――性の自己決定とは」も力作だ。観点が違うこの二つの論文の考察はともに、期せずして、"正常で健康な"男女の性愛それ自体が内包する非対称性、不平等性、強制性、暴力性、罪責性、原罪性などに行き着いている。 小泉論文は、そのタイトルが示すように、異性愛、生殖、子育てという論理的には独立でありうる三項が、人類の歴史においては三位一体のものとして扱われ、恐るべき強制力を持ってきたことに焦点

    岩波講座哲学12『性/愛の哲学』(1) - charisの美学日誌
    lotus3000
    lotus3000 2009/12/06
    ”"正常で健康な"男女の性愛それ自体が内包する非対称性、不平等性、強制性、暴力性、罪責性、原罪性” 一旦妊娠させただけでも拘束することには変りないしね。
  • 虚構から現実へ その2――暴力はいかなる場合に許されるのか? - the deconstruKction of right

    年越しを『暴力批判論』を読んで過ごすというなんだか最悪の始まり方をしてしまった2009年ではあるが、そのとき以来、ずっと「暴力」と「正義」の問題について考えていた。それは派遣村とか、派遣切りとか、極端な経済的暴力によって死に直面する人がテロを行使することは許されるのか、正義なのか、(国家がやる恐怖政治=すっごく働いて正社員にならないと派遣切りとかさせるぞ的恐怖政治だって、原義のテロルである)そんなことを考えていた。 先日のエクス・ポ・ナイトの東浩紀×萱野稔人×鈴木健介の鼎談、および、最近の東さんの授業(id:nitar)を受けていてずっと考えていたのだが、結論が出なかった。ループしている。岩波思想のフロンティアシリーズの『正義』『暴力』『自由』などを買ってきたが、それでもぜんぜん結論が出ない。昨日、ライトテロル論の松平耕一さん(http://literaryspace.blog101.fc

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