通常、廃墟と聞いてまず思い浮かべるのは、朽ち果てた印象、そして心霊的印象が強いと思います。本展では、見ているだけで廃墟のイメージが180度“変わる”、廃墟のもつ“美しさ”に注目。タイトルにもある“変わる”とは、今まで持っていたイメージの転換を意味しており、息をのむほど美しい写真や物語を想起させられる作品は男女問わずに楽しんでいただけるはずです。静寂のなかに眠る美しさを体感いただける写真展です。 一年に一度新作が公開される本展では、Instagramフォロワー数が3万人を超える啝(@neji_maki_dori)やTwitterで作品を公開するえぬびい(@enuenuenubi)に加えて、野口恭平(@kyon_K4)やナガサワケンゴ(@noiseatlantic)など初出展となるクリエイターも多数登場、総勢16組のアーティストが参加します。 会場限定で購入できるオリジナルグッズも登場するので
(CNN) 橋のそばに立つ悪魔サタンが携帯電話を手に自撮り――。スペインのセゴビアで、そんな彫像を設置する計画が進み、物議を醸している。 地元当局はサタン像を観光の目玉としたい考えだが、像のおちゃめな様子にカトリック教徒は反発。計画を非難する請願に5500人の署名を集めた。 請願書では「この表現はカトリック教徒にとって侮辱的だ」と述べ、芸術において悪魔は「忌まわしく卑劣」な存在として描かれるべきで、「親しみやすく魅惑的」であってはならないと主張している。 サタン像の設置予定地は、セゴビアにあるローマ時代の水道橋から200メートルの場所。市議会によると、サタンにより一夜にして水道橋が建設されたとの言い伝えにちなんでいるという。 設置を支持する請願もあり、こちらは2100人超の署名を集めた。請願書では水道橋の伝説に触れ、サタンは「言い伝えに登場するキャラクターに過ぎず、道徳や宗教に影響を与える
細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ) (1563-1600) 明智光秀の娘。名は、たま。細川忠興に嫁し、天正15(1587)年受洗。洗礼名ガラシャ(Gratia ラテン語で神の恵みの意味)。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで忠興が徳川方(東軍)についたため、石田三成が人質としてガラシャの大坂入城を求めたが、ガラシャはそれを拒み、大坂玉造の細川邸において家臣の手によって自らの命を絶った。享年38歳。 1 細川忠興夫人書簡(『細川忠興同夫人等書状』のうち)〔安土桃山時代〕【WA25-35】 細川ガラシャが、仕えていた小侍従こじじゅうに宛てたもの。小侍従はガラシャが忠興に嫁ぐ際に明智家がつけた侍女で、後に細川家家臣平田家へ嫁した。流麗な筆跡の美しい仮名散らし書きで、文面からは周囲の者への細やかな心配りが読み取れる。 当館ではガラシャの書状10通のほか、細川忠興書状8通、三男忠利書状1通、四男立允
春峯庵事件の肉筆浮世絵贋作は、警察に押収されて保管庫に入れられたそうです。が、その後テント商(?)の近藤吉助に下げ渡された(なぜ?)、とか海外に売られたとか、現在は所在不明になっているようです。 小説『春峰庵事件』では、入札会をするに至った作品は、上野の画商グループが贋作だと思わずに購入したもので、その画商グループの発起人が近常六郎という名で登場します。これが、近藤吉助だとすると、警察は購入者に返却したのだと思います。今ならコピー商品を返却するなんて考えられませんが、どうなんでしょうか。もっとも、入札会用に作成された笹川臨風推薦文付き目録があるので、うかつに真物としては売れないでしょう。 矢田一家の作品は、「春峯庵もの」として古美術界で、現在も出回っているみたいです。(ネットで屏風を発見しました) しかし、海外へ売られたものはどうなんでしょうか。しがない浮世絵商の近藤吉助が、真物だとも贋作
作品について 色鮮やかな8枚の扉が空間を区切る。宮沢賢治の『注文の多い料理店』を具現化したものだ。客に対する注文の言葉がつづられた扉をくぐると、物語の世界に迷い込んだような気になる。
「村上隆のスーパーフラット・コレクションー蕭白、魯山人からキーファーまでー」特設サイトはこちら 展覧会概要 古美術、現代アート、その他もろもろ 御開帳!村上隆のスーパーフラット・コレクション この展覧会は、現代日本を代表するアーティスト、村上隆(むらかみたかし)(1962年生まれ)の現代美術を中心とするコレクションを初めて大規模に紹介するものです。 村上隆は、東京藝術大学にて日本画初の博士号を取得。現代美術と日本の伝統絵画、ハイカルチャーとポップカルチャー、東洋と西洋を交差させた極めて完成度の高い一連の作品で世界的に評価され、海外の著名な美術館で数々の個展を開催してきました。 アーティストとしての精力的な創作の一方で、村上隆はキュレーター、ギャラリスト、プロデューサーなど多岐にわたる活動も展開しています。特に、近年、独自の眼と美意識で国内外の様々な美術品を積極的に蒐集し続けており、その知ら
浅田 彰(あさだ・あきら) 1957年、神戸市生まれ。 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。 同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。 著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。 最新のエントリー 19.05.01 昭和の終わり、平成の終わり 19.03.29 原美術館のドリス・ファン・ノーテン 19.03.07 マックイーンとマルジェラ――ファッション・ビジネスの大波の中で 18.12.07 映画のラスト・エンペラー――ベルナルド・ベルトルッチ追悼 18.11.03 トランプから/トランプへ(5)マクロンとトラン
行き過ぎた格好や行為はよく世間から嘲笑や批判の的にされます。しかし、どんなに周りから後ろ指をさされていても彼らにはこんなにもキラキラしていて何事にも代え難い宝物のような世界を持っているのです。私はこういった批判されがちな宗教的な行動を「肯定した世界」として表現したいと考え、これらの作品を制作しました。元々マイナスなイメージを抱いていたものであっても、この世界を覗いてみて少しでもプラスのイメージに変わる人がいれば幸いです。 宗教や若者のトレンド、あるいはサブカルチャー等に関するリサーチを経て、ファンタジックな表現を通じ、気になる人びとの世界を肯定的に描き出している。同じテーマを扱っていても、共感して肯定的に描く事と批判的に描くこととでは、鑑賞者に伝わるメッセージは全く違うものになる。どう描けばどう伝わるのか?この問いに答えるために、完成までに様々な表現で同一テーマを描き比べる習作を重ねきた。
「服を脱げ」と題したこの作品のために、ソン氏は「命を危険にさらした」という。故金正日総書記の顔の下に、米女優マリリン・モンローがスカートを押さえる有名なポーズを描いた。同氏は「北朝鮮社会が開放された後、この作品について議論してもらえることを願っている」と話す
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ J-CASTニュース 11月22日(火)20時2分配信 世界中で大ヒットしたアニメ映画「攻殻機動隊」などの監督、押井守さん(60)が現在のアニメ作品について「オタクの消費財と化し表現の体をなしていない」と批判した。 ネットではこの発言に納得する人もいるのだが、自分達の好きなアニメを批判していると感じたアニメファンは「押井こそオワコン(終わったコンテンツ)」などと押井さんに対する盛大な批判を展開している。 ■ほとんどのアニメはオタクの消費財と化した 押井さんは1983年に劇場アニメ映画「うる星やつら オンリー・ユー」で監督デビューした。「機動警察パトレイバー」「攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL) 」「イノセンス」など数多くの作品をリリースしていて「攻殻機動隊」については95年
崇徳天皇(すとくてんのう、旧字体:崇德天皇、1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は、日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)。諱は顕仁(あきひと)。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院。その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。日本三大怨霊の一人として知られる。 小惑星のSutoku(崇徳)は崇徳天皇に因んで命名された[1]。 元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で即位した。大治4年(1129年)、
Turner was a well traveled man, frequently trekking to natural wonders of mainland Europe and the British Isles to sketch them in one of his dozens of notepads. He knew of the pains one must take to travel off the beaten path and wrote of one such occasion, traveling from Rome to Paris, to a friend in 1829: “…we never could keep warm or make our day’s distance good, the places we put up at proved
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