9月15日には、関ヶ原合戦があった。西軍を率いた石田三成は、勝算があって徳川家康に戦いを挑んだが、結局は敗北した。負けたのには理由があり、それは開戦前の三成がまったく予想さえしてなかったことだった。 ■理由その1:兵力が劣っていた島津軍と宇喜多軍 西軍に与した諸大名は多数いたが、なかでも島津義弘と宇喜多秀家には大きな期待が寄せられていた。 島津氏は薩摩、大隅などを領した大大名で、宇喜多氏も備前、美作などを支配する大大名だった。しかし、この両者は、ともに共通する難題を抱えていた。それは、家中騒動である。 慶長4年(1599)から翌年にかけて、庄内の乱が勃発した。庄内の乱とは、島津氏とその重臣・伊集院氏との家中騒動である。 乱は容易に鎮まらず、終結には徳川家康の仲介を必要とした。結果、島津家中の弱体化が進み、関ヶ原合戦では軍役に見合った軍勢を送り込むことができなかった。 同じく慶長4年(159