「金のなる木を売り渡そうとしたなんて信じられますか?あのときファミコンをアタリに売っていたら、任天堂の名前が海外で知られることもなかったでしょう」 ―― ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)の代表を務めた荒川實の回想[1] 1983年、任天堂とアタリ社の間でファミリーコンピュータの海外販売権を巡って許諾交渉が行われました。 これはデヴィッド・シェフ著『ゲーム・オーバー』にて広く知られるようになった事実であり、先日に出版された『ファミコンとその時代』においてもファミコンの海外展開を論じた文章の中で参考文献として提示されています。 ただし『ゲーム・オーバー』の記述は、もっぱら交渉に立ち会った人物の描写(おそらくかなり脚色が加えられている)に重点を置いています。肝心の交渉内容については、アタリ社に“日本以外での販売権を認め”、“極めて低いコストでファミコンを製造させようとしていた”[2]などと
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