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philosophyに関するmaricar9710のブックマーク (8)

  • ぼっちを救うためのストア哲学 - 本しゃぶり

    なぜぼっちは恵まれているのに苦しむのか。 それは心像に負けているからである。 幸福になりたければストア哲学を実践しろ。 暗く狭い場所にて 『ぼっち・ざ・ろっく!』の人気が凄い。 1話の時点からクオリティが高いなと思っていたが、回を増すごとにどんどん人気が高まっている。最近はTwitterを開くたびにファンアートが流れている印象がある。 もちろん俺も楽しんで見ているわけだが、つい思ってしまうことがある。作の主人公、ぼっちこと後藤ひとりに対して、「こいつ、持っているな」と。 『ぼっち・ざ・ろっく!』第1話 感受性。創造力。優れた容姿。生まれの良さ。練習を持続する意志。アリストテレスならば、彼女のことを「外的な善を持ち合わせている」と評するだろう。 だが何よりもぼっちは、卓越した演奏技術、すなわちギタリストの徳(アレテー)を持っている。これほど素晴らしいことがあるだろうか。 しかし当のぼっちは

    ぼっちを救うためのストア哲学 - 本しゃぶり
  • なぜ私は私なのか - Wikipedia

    「なぜ私は私なのか」(なぜわたしはわたしなのか、英:Why am I me ?)は哲学の一分野である形而上学、または心の哲学の領域で議論される問題のひとつ。この問題は様々な形で定式化されるが、最も一般的には次のような形で表される問題である。 世界中に今現在、沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?) この問いには色々な名称がある。たとえば「私の問題(わたくしのもんだい)」、これは日の哲学者永井均が使用する山括弧付きの〈私〉という表記法を使って「〈私〉の問題(やまかっこわたくしやまかっことじの-)」と表記されることもある。またオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提出した「

    なぜ私は私なのか - Wikipedia
  • 70年代プログレ!ゲーム音楽好きにもおすすめアルバム名盤50選 - ココッチィ

    プログレって興味あります?交響曲みたいな音楽ですよね。シンフォニックなクラッシックというか。ゲーム音楽を作る方々は、かなり影響をうけてるらしいですね。 プログレって何?と相方スケさんに尋ねてみると、ロックをよりよくしよう、価値を高めようと作られた曲だそうです。 ゲーム音楽を作曲する方で有名なのは、ファイナルファンタジーの植松信夫さんですね。「プログレ博士」を自称するほどのプログレが大好きとのこと。 植松伸夫 - Wikipedia 博士には及びませんが、プログレなら100曲でも200曲でも選べる、と根っからのプログレ好きな相方スケさんに選んでもらった50曲。人曰く、「僕が好きな曲を集めただけです」 ぶっちゃけ私には、全然わからないロックの価値を高めようとした曲の数々。結局、なんでもアリなの?と思ってしまう。ちょっと興味を持った初めての方も、元々プログレ好きな方も、気楽に楽しんでいただける

    70年代プログレ!ゲーム音楽好きにもおすすめアルバム名盤50選 - ココッチィ
  • 行動経済学は「運がいい人っているの?」という問いにこう答えた──話題の翻訳書、訳者が語る! 第3回『アリエリー教授の人生相談室』

    「イチ押し」すべき話題の一冊について翻訳者自身が登場してエッセイを寄稿する好評シリーズ、第3回です。 今回の一冊は、「クーリエ・ジャポン」の記事でもおなじみ、デューク大学の行動経済学者ダン・アリエリー教授がおくる『アリエリー教授の人生相談室 行動経済学で解決する100の不合理』。アリエリーの教授を訳すのが今回で3冊目となる翻訳者、櫻井祐子氏が「アリエリー教授の何がすごいか」を教えてくれます。 訳者の心に響いた「とっておきの回答」 『アリエリー教授の人生相談室』は、「ウォールストリート・ジャーナル」紙に2012年から連載されている人気コラムを書籍化したものだ。 行動経済学者のアリエリー教授のところには、もともと読者からいろんな相談が寄せられていた。人の痛みのわかる苦労人で、しかもあの親しみやすいキャラクターときたら、相談したくなるのも当然だろう。 教授はそれに答えるうちに、誰にでも役立ちそう

    行動経済学は「運がいい人っているの?」という問いにこう答えた──話題の翻訳書、訳者が語る! 第3回『アリエリー教授の人生相談室』
  • 本当に「私以外私じゃないの」か?東大の哲学教授・梶谷真司先生に聞いてみた | 株式会社LIG(リグ)|DX支援・システム開発・Web制作

    「私以外〜私じゃないの〜。当たり前だけどね〜」 ・ ・ ・ って、ちょっとまって。 当に、わたし以外わたしじゃないの……? しかもそれって当たり前なの? もしかしたらわたし以外もわたしの可能性もあるのでは? わたし以外もわたしだったとしたら? たとえばこの目の前にあるティッシュ。たとえばこの目の前にあるコップ。もしかしたら「明日から、これもおまえだ」って言われることもあるのでは? もしそういう世界になったら、もっと世の中を自分ごととして捉えられるかもしれないよね……。「そのティッシュ、わたしなんで大事にしてくださいね」っていう世界になれば、それってハッピーじゃない? ってことはわたし以外わたしじゃないほうがよかったり……? ……一般常識でいえば、わたし以外はわたしではないことは当たり前なのですが、考えていると、わたし以外わたしじゃないことが当にわからない限りは安心して暮らせない、という

    本当に「私以外私じゃないの」か?東大の哲学教授・梶谷真司先生に聞いてみた | 株式会社LIG(リグ)|DX支援・システム開発・Web制作
  • アリストテレスによる欲望の監禁 フーコー『知への意志講義』 - オシテオサレテ

    ミシェル・フーコー講義集成 1 〈知への意志〉講義: 知への意志講義 コレージュ・ド・フランス講義1970─1971年度 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,慎改康之,藤山真出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2014/03/17メディア: 単行この商品を含むブログ (2件) を見る ミシェル・フーコー『知への意志講義 コレージュ・ド・フランス講義1970-1971年度』ミシェル・フーコー講義集成 1, 慎改康之、藤山真訳、筑摩書房、2014年、3–53ページ。 コレージュ・ド・フランスでのフーコーの講義は、アリストテレス『形而上学』冒頭部の分析からはじまる。そこでアリストテレスが歴史的に重要な操作をひそかに行っているというのだ。 周知のように『形而上学』は次のようにはじまる。 すべての人間は、その自然性によって、認識への欲望を持っている。諸感覚によって引き起こ

    アリストテレスによる欲望の監禁 フーコー『知への意志講義』 - オシテオサレテ
  • 多くの人にとって、哲学が「アホらしい」理由

    ここらで、「哲学は~でないか?」というテーマを終えて、そもそも「哲学とは何であるか?」を語ってみましょう。哲学に相当長く首を突っ込んでいる輩なら、世間で言われるように「真理の追究」(あるいは「真・善・美」の追究)と答えてみても、何か嘘くさいと感ずることでしょう。 なぜなら、「真理の追究」と答えて済ましていられるのは、「真理」という言葉に疑問を抱いていないからであって、この言葉自体に疑問を抱くと、たちまちこう答えてもまだ何も答えていないことに気づくからです。 哲学は「真理の追究」なのか? たしかに、「真理」を国語辞典で調べれば、あるいは調べてみなくても、日常的にほぼその意味を知っている。しかし、哲学は、まさにその日常的使い方に基づきながらも、それを彫琢し、変形し、さらに思いもかけないほど別のものにすることすらあります。 いいでしょうか? 「哲学とは何であるか?」と問うて「真理の追究」と答えた

    多くの人にとって、哲学が「アホらしい」理由
  • レヴィナスの時間論 - 内田樹の研究室

    『福音と世界』という冊子に標記のような文を寄せた。あまりふつうの人の眼には止まらないような媒体なので、ここに再録しておく。 レヴィナスの時間論 最初は「レヴィナスの終末論」というお題を頂いた。原稿を引き受けたのは昨年の12月である。そのときには「あのこと」を書こうというアイディアがあったのだと思う(そうでなければ引き受けない)。だが、10ヶ月経って、いざ締め切り間際になってみると、そのとき何を書く気で引き受けたのかが思い出せない。とりあえず、レヴィナスの時間の観念についてなら少し書けそうな気がするので、それを書こうと思う。それはユダヤ教の終末論的思考にどこかで通底しているはずである。 エマニュエル・レヴィナス(1906-95)の戦後すぐの著作に『時間と他者』がある。短い講演録だが、正直言うと、ほとんど意味不明のテクストである。 終戦直後に「ホロコースト・サヴァイヴァー」としてのレヴィナスの

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