性愛は互いの器を通して互いの存在そのものを愛おしむ行為なのだから「ゴールなどない」。性交すら必要ない。そこに現にただ存在する、ということだけが前提にあるものだ。
この問題提起は非常にしばしば耳にするところで、基本的にはまったく同意しないのだが、しかしなぜ何度もおなじことを言われるのかを考えると、「救う」という言葉でおたがいに想定していることがらの範囲がちがうのだろうという気がする。 そんなことを考えていて思い出したのだが、ジェンダー論とかフェミニズムとかで文学や映画、あるいは絵画などをあつかっていると、贅沢品扱いというか、女性の生存にとってほんとうに大事なこともやらずになにをあそんでいるのか、という批判をうけやすい。このときの「生存にとって大事なこと」も、たぶん自分とはかんがえていることがちがうのだろうという気がする。 衣食住の保証とか身体の安全を脅かされないこととか、ひとが生きていくうえで大事なことはいろいろある。 「飢えたひとを前にしても芸術に意味があると言えるのは、そのひとが飢えたことがないからだ」という言い方があるが、そんなことが言えるのは
http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20080321/1206115370 男の肉体を舞台に、女性的な官能描写がなされていて、その描写の強さが、女性読者ばかりか男性読者の僕までも、官能のありようの違いを乗り越えて巻き込んでいった……そんなふうに、当時の僕には思えてならなかったのです。 実は今回私が書き連ねる事柄は、元記事の内容の本筋とは無縁なのだけど(すいません)、我が事について思う事があったのでメモ。あ、ちなみに私は『間の楔』は読んでないのでちょっと疑問には答えられません…。<古典にはとことん弱いのだだです。 m-aboさんはJUNE小説を読み込む事で、かつての自分とは異なる“女性的な官能”を感じたと仰るのだけど、そことは少し別のこの部分を読んで、私はドキリとした。 達する寸前ではぐらかされ、また責められてははぐらかされ…といった性技のなりゆきは、むしろ女体に対するそ
Filed under economics, politics Posted on 2008/02/25 月曜日 - 01:18:57 by admin Responses are currently closed, but you can trackback from your own site. http://macska.org/article/219/trackback/ 60 Responses - “アファーマティヴアクションを巡る倒錯した非難/苺畑カカシさんへ3” macska Says: 2008/02/25 - 08:27:02 - いまカカシさんのサイトを見たら、エントリが少し書き直されており、次の断りがありました。 お断り:このエントリーは数時間前に掲載したものを訂正して書き直したものです。特定の人物への個人攻撃のような内容があったのでその部分を削除しました。数時間前
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