タグ

ブックマーク / www.udauda.net/~geldolva (1)

  • ヤオイ・トラブル

    これまでのヤオイ論では、ヤオイというカテゴリーを通して理解される、 特定の女性(腐女子)の存在が前提されていた。そうした言説がヤオイの利害や目的を表象するのみならず、 ヤオイを代表するとされる主体をも構築していた。ヤオイを十全かつ適切に表象する言語をつくりだすことが、 ヤオイスキーたちにとっても必要と思われていたからである。 たしかに彼女たちの生き方が誤って(例:欲求不満とか)表象され、またはほとんど無視される文化的状況が一般的なのをみれば、 そうすることが重要だと考えられてきたのも、やむをえなかったろう。 しかし今や、ヤオイ批評は、ヤオイ主体を探求しようとするまさにその権力構造によって、いかに自らが生産され、 また制約されているかを理解しなければならない。たとえば、ヤオイの抑圧のまえに存在する「女」に何らかの共通項があるのか、 あるいは抑圧されているがゆえにヤオイはむすびつくのか。 つま

    marinee
    marinee 2008/12/24
    ”ヤオイにおける異性愛権力関係のパロディ的な反復は、 オリジナルかつ自然と考えられている異性愛が、じつはまったく観念上の構築物、 理想の喜劇的なコピーにすぎないことを逆照射的に暴露するものである。”
  • 1