※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。 かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなかった「かな日記」と言えば、古代では紀貫之『土佐日記』が有名である。「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむ、とて、するなり」で始まる創作文学であり、土佐から帰任する国司に随従する女性の立場で記されているが、貫之が土佐守の任を終えて都に戻るのは九三四(承平四)年末から翌年にかけてのことで、それからまもなく執筆されたらしい。ただ、かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなく、それ以前にかなで日記を記した女性が存在していた。藤原穏子(やすこ)である。 穏子は関白藤原基経の娘として八八五(仁和元)年に生まれた。人康(さねやす)親王の娘を母とする。数え年七歳のときに父基経が亡くなった後、兄の時平は穏子を皇太子敦