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2012年4月25日のブックマーク (7件)

  • 『http://polylogos.org/soc23.html』へのコメント

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    『http://polylogos.org/soc23.html』へのコメント
    morutan
    morutan 2012/04/25
    貴族による王政への抵抗、王政による対貴族の言説として階層化された知が国家への帰属意識や支配の正統性を問う道具へ。憲法、政治体制が批判不可能なものではなくなり国家体質の歴史から相対化されるものに
  • http://polylogos.org/soc23.html

    morutan
    morutan 2012/04/25
    王は自らの正統化のために知の実践化を求める。選別、規格化、階層化、中央への集中の流れの中で知は近代的に編成され、博物学的に「覚えるもの」から「検証され研がれ政治経済的課題に使われるもの」に。科学知誕生
  • War and Peace

    戦争と平和 -1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義 『社会を守れ』(八) (中山 元) ★ブーランヴィリエの戦争論 ブーランヴィリエによる戦争の最初の一般化は、権利と権利の基礎についての一般化である。ブーランヴィリエ以前の一六世紀のフランス・プロテスタントの宗教戦争や、イギリス議会の国王に対する戦争では、既存の法が中断され、覆された。戦争は、新しい法状態への移行をともなったのである。しかしブーランヴィリエが主張する「戦争」は、既存の法体系の転覆を目的とするものではない。ブーランヴィリエの戦争は、法の全体を回復するものであり、一つの自然法を復活させるものである。 しかしブーランヴィリエが自然法を信奉していたわけではない。逆にブーランヴィリエの戦略は、ローマ法由来の自然法の抽象性を暴くことにあったようである。この自然法は、法として提示されるともはや適用できないものである。ブーラ

    morutan
    morutan 2012/04/25
    『歴史に対するまなざしが、法的な主権論から、権力という現象が演じられる現場での力関係へと移行してきたことに』 王の主権の正統性を自然法に基づいて説くことが当たり前だった構造から、原始での権力争いを想定
  • http://polylogos.org/soc20.html

    morutan
    morutan 2012/04/25
    共通グループとしてのnationが先にできて王の正統性を歴史に基づいて相対化しはじめた。此れに対して王は行政知と法的な知に加え歴史の知も取り込んで対抗しようとしたが、逆に第三身分の権利の主張を裏付けることに
  • French Revolution 法国大革命 Francia Forradalom|軍事板常見問題 戦史別館

    morutan
    morutan 2012/04/25
    フランス革命時の財政難状況について
  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0015.html

    morutan
    morutan 2012/04/25
    『明治国家がなぜ立憲君主を戴いたかというと、すなわちなぜ幕末維新の志士たちが、古代さながらの「祭政一致」と「王政復古」を考えたかというと』官僚だけでは足りないところを神権によって奉じさせる必要があった
  • 「王の死と再生」の話: muse-A-muse 2nd

    この辺の話みながらなんかいろいろ思ったり、いま読んでるにリンクしたりしたので 王殺し、偽王(モック・キング)の戴冠と死 | Kousyoublog http://kousyoublog.jp/?eid=2529 聖以前の無縁状態の頃、王は人々のケガレを背負って死ぬ象徴的な存在であった、って話 それが変異したのはタタリを中心とした信仰が利益中心になった頃かな? ということでこれなんか思い浮かんだ(未読) 松岡正剛の千夜千冊『アマテラスの変貌』佐藤弘夫 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0668.html 「日の神はもともとはタタリ神だったのに救い神的な性格も備え「賞」と「罰」を与える神に性格を変えていった。 「天照の性格の変化にそれが表れている」というのは新興宗教が教義を変えていく流れを想わせる。(新興宗教の多くは最初のころは哲学・思想的教義であっ

    morutan
    morutan 2012/04/25
    『様々な個人の集合である社会を一つの個体と見做す、という無理』を通すために「内側でありながら外にあり」という王の2つの身体がつくられていた。異なるものの集合であるナショナリズムへと。国家理性は法人か