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ブックマーク / polylogos.org (9)

  • 『新ヨーロッパ大全、一』

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    morutan 2013/12/17
    家族制度と農地制度がどのように社会を規定するか、また家族制度のもとにどのようにキリスト教が受容され宗教改革がおこったか http://bit.ly/KmmIz9 http://bit.ly/KmmHva 読んでる
  • Papers

    ホームページ 哲学の系譜 ポリロゴス27号 ポリロゴス通信 1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義『社会を守れ』 (中山 元) 第一二回:生の権力 第一一回:国家についての新しいディスクールの登場 第十回:秩序を形成する革命 第九回:科学と哲学-一八世紀の知の空間 第八回:戦争と平和 第七回:ブーランヴィリエの新しさ 第六回:歴史のディスクールの新しい主体 第五回:ディスクールの戦い 第四回:人種のディスクール 第三回:戦争のディスクール 第ニ回:主体と権力 第一回:権力分析のモデル メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読む(中山 元) 第六回:現象学的な方法の功罪 第五回:身体の存在論 第四回:幻影肢の問題性 第三回:メルロ=ポンティの現象野の方法論 第ニ回:メルロ=ポンティの「純粋感性論批判」 第一回:メルロ=ポンティと現象学

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    morutan 2012/04/26
    社会契約説を含む法哲学の誕生を王対貴族の主権の大義をめぐる言説空間での闘争の痕跡として捉え、背景に神・主権に対する認識転回を見る。王権、法は神与・不変ではなくなり、土地から人・時間へと権力の資源は移る
  • http://polylogos.org/soc27.html

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    morutan 2012/04/26
    生権力、18c以降にプロレタリアートを創りだす権力の全体性として http://bit.ly/IB0rWC ←ちくまから出版されてる奴
  • SOC18

    ★人種の戦いのディスクールの位置[1/28-2] 伝統的な歴史のディスクールに対抗するこの反歴史のディスクールは、まずそれまでの中世のローマ的な伝統に対する異議の申し立てという形を取った。フーコーはここでデュメジルの神話論に依拠しながら、インド=ヨーロッパ語族とローマの社会構造が、主権者の第一機能、戦士の第二機能、繁栄と豊穣の第三機能に分割される形で形成されていたとすると、新しい歴史のディスクールはこのような三分法ではなく、「われわれ」と「彼ら」という二分法で形成されていることを指摘する。主権者と臣民、富んだものと貧しいもの、侵略者と被征服者との対立が、それまでの安定した社会構造を転換させる批判的なディスクールを持ち込むのである。 フーコーはここにおいて、インド=ヨーロッパ語族の歴史性の終焉が始まると考える。これは中世のかなり遅くの時期まで続いていた「ラテン中世」的な伝統概念の終焉であり、

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    morutan 2012/04/26
    神世:神与ゆえ固定→土地に固定(アナログ) → 動く(取り替え可能)社会に(デジタル)-貨幣  神から人へ大義が移行するのに伴うように経済の原理、法-政治体制が変わっていく
  • Il faut defendre la societe -02

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    morutan 2012/04/26
    主権論は王の権力を強化するために使われると同時に、王の権力を制限する理論としても使われてきた。ルソー、フランス革命までは同モデルで。18c頃から既存の主権論とは全く違う権力メカニズムが登場。
  • http://polylogos.org/soc23.html

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    morutan 2012/04/25
    王は自らの正統化のために知の実践化を求める。選別、規格化、階層化、中央への集中の流れの中で知は近代的に編成され、博物学的に「覚えるもの」から「検証され研がれ政治経済的課題に使われるもの」に。科学知誕生
  • War and Peace

    戦争と平和 -1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義 『社会を守れ』(八) (中山 元) ★ブーランヴィリエの戦争論 ブーランヴィリエによる戦争の最初の一般化は、権利と権利の基礎についての一般化である。ブーランヴィリエ以前の一六世紀のフランス・プロテスタントの宗教戦争や、イギリス議会の国王に対する戦争では、既存の法が中断され、覆された。戦争は、新しい法状態への移行をともなったのである。しかしブーランヴィリエが主張する「戦争」は、既存の法体系の転覆を目的とするものではない。ブーランヴィリエの戦争は、法の全体を回復するものであり、一つの自然法を復活させるものである。 しかしブーランヴィリエが自然法を信奉していたわけではない。逆にブーランヴィリエの戦略は、ローマ法由来の自然法の抽象性を暴くことにあったようである。この自然法は、法として提示されるともはや適用できないものである。ブーラ

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    morutan 2012/04/25
    『歴史に対するまなざしが、法的な主権論から、権力という現象が演じられる現場での力関係へと移行してきたことに』 王の主権の正統性を自然法に基づいて説くことが当たり前だった構造から、原始での権力争いを想定
  • http://polylogos.org/soc20.html

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    morutan 2012/04/25
    共通グループとしてのnationが先にできて王の正統性を歴史に基づいて相対化しはじめた。此れに対して王は行政知と法的な知に加え歴史の知も取り込んで対抗しようとしたが、逆に第三身分の権利の主張を裏付けることに
  • 『王の二つの身体(上)』

    一九九二年に平凡社からでていたカントローヴィチの名著『王の二つの身体』が、二分冊で筑摩の学芸文庫から出版されたときは、嬉しかったものだ。ほとんど入手できない状態になっていたし、図書館から借りるのではなく、手元においておきたかっただからだ。 この上巻では、西洋の国家と法律の理論の根底にある国王二体論をその端緒から一三世紀頃までを追う。「キリストを中心とする王権」の章では、キリスト教の二つの身体論と二つの性論との類比で考察されていた王権論を詳しく紹介する。王には二つの人格があるという考え方は、「キリストを中心とする王権の中世的観念が、西欧においてごく稀のしかしみられないような極端な形態へと展開されていった」(96)のである。 王が双生の人格であるという観念は、キリストの性論からすぐに出てくるもので、ごく自然な発想だ。しかしうっかりするとすぐにネウトリオス主義や養子説に転化してしまうので、

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    morutan 2012/04/24
    国家理性、一般意志、社会契約に通じる王の霊性と法の関係
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