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北杜夫に関するmshkhのブックマーク (6)

  • ■ - jun-jun1965の日記

    1956年3月17日、奥野健男『太宰治論』の出版記念会に出席した三島由紀夫(31)は、初めて北杜夫(29)に会う。北は「三島さんは『てふど』と書くが、『ちやうど』とすべきだ。ちゃんと辞書くらい引いてください」と言う。怒った三島は夜中の二時に奥野に電話をかけ、「『幽霊』とかを書いた天才とかいうが、あんな無礼な文学青年を二度と紹介しないでくれ。何が「ちやうど」だ」と言う。間違いを素直に認められない三島であった。(奥野『三島由紀夫伝説』) - 『現代思想』が届いたので(これは「週刊読書人」の時評のためである)見たら、阪大時代の同僚だった大村敬一君が出ていた。大村は文化人類学専門で、私より後から来た人だが、はじめよくカナダへエスキモーの調査に行っていた。なんか小林秀雄的な物言いをする人で、面白そうなのだが時々何を言っているのか分からず難儀した。ここでも、まあ分からないことを言っている(座談会)が、

    ■ - jun-jun1965の日記
    mshkh
    mshkh 2011/10/29
    ちょっと興味深いエピソード
  • ウェブリブログ:サービスは終了しました。

    「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※引っ越し先ブログへのリダイレクトサービスは2024年1月31日で終了いたしました。 BIGLOBEのサービス一覧

    ウェブリブログ:サービスは終了しました。
  • 「どくとるマンボウ」北杜夫さん死去 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    ユーモアあふれる“どくとるマンボウ”シリーズや、大河小説「楡家(にれけ)の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、24日死去した。 84歳だった。告別式は親族で行う。 近代短歌を代表する斎藤茂吉の次男として東京に生まれた。旧制松高を経て東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。 60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。「昆虫記」「青春記」などマンボウものを出版して人気を博した。 同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行、毎日出版文化賞を受けた。「さびしい王様」など、大人も子供も楽しめる童話でも親しまれた。「青年茂吉」など父の生涯を追った評伝で98年、大仏

    mshkh
    mshkh 2011/10/26
    愛読した作家の一人でした.残念です.
  • 『母の影』(北杜夫) : 本屋さんへ行こう!

  • asahi.com(朝日新聞社):作家・北杜夫 追憶の風景 青山(東京) - 文化トピックス - 文化

    作家・北杜夫 追憶の風景 青山(東京)(1/2ページ)2010年11月9日14時52分 きた・もりお 1927年、東京都生まれ。「夜と霧の隅で」で芥川賞、『楡家の人びと』で毎日出版文化賞。エッセー「マンボウ」シリーズも人気。茂吉の評伝4部作で大佛次郎賞。写真は鈴木好之撮影。 青山にいた子供の頃は、非常に気が弱かったんです。父の斎藤茂吉は青山脳病院の院長でした。同級生に「脳病院はもうかるだろう、相手はキチガイだから何にもわからない」なんて言われて。病院ではちゃんと治療してたのに反論できない。悔しかったですよ。 子供の頃は両親をパパ、ママと呼んでいました。でも『楡家の人びと』の中では「下田の婆(ばあ)や」、実際は松田のばあやが一番かわいがってくれて、肉親以上に親身でした。最初の長編小説『幽霊』で、ばあやが死んだ時に、僕を愛してくれる人は一人もいなくなったという感慨を書いたけれど、それは当だっ

    mshkh
    mshkh 2010/11/09
    「楡家の人びと」はすごい小説だった.また読み返してみたくなったな
  • asahi.com(朝日新聞社):北杜夫×辻邦生、若き日の往復書簡38通 文学に情熱 - 出版ニュース - BOOK

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