タグ

批判と文学に関するmshkhのブックマーク (2)

  • ■ - jun-jun1965の日記

    『グーテンベルグからグーグルへ』という翻訳書の筆頭訳者・明星聖子の訳者あとがきでの暴走ぶりが生半可じゃない。「私、この『編集文献学』って学問、好きじゃないかもしれない、いや、嫌い。嫌なんです。文学の後衛でぬくぬくしていたいんです」といった感じである。 さらに、岩波書店の『漱石全集』の新しいのが出て、編纂者の名前がないことに気づいた明星は、岩波の編集者である秋山豊のを読んで、これまで編集委員などとなっていた荒正人や小宮豊隆は、漱石の生原稿を「見た」と言ってもちらっと見ただけで細かい校訂作業はしていないとあるのを見てショックを受ける。 「全集」の編集委員に名前が出ている偉い人、たとえば井上靖などが、実際にはほとんど何もしていないことは常識で、明星という人は年齢不詳だが、多分私の三つ下くらいで、ずいぶんナイーヴだな、と思うのだが、そもそも漱石とか谷崎とか、普通に書いたものを活字にしてきた作家は

    ■ - jun-jun1965の日記
    mshkh
    mshkh 2014/07/01
    「テキスト・クリティークなどというのは、19世紀以前の、活字文明がない、または未発達の時代の文学作品が本来の対象」「漱石とか谷崎とかいった作家の場合、重要なのはむしろ注釈をつけること」
  • 読んだけどつまらなかったよ - jun-jun1965の日記

    ちょいと前の日経新聞で佐々木敦とかいう人が、今の小説はダメだと言う人がいるが、読まずに言うのはおかしい、と言っていたのだが(ただし取材記事)、うーん具体的にどこのどなたさんが、読まずにそういうことを言っているのか、ちと教えて欲しいのであるが、別に私は今の小説がダメだとは言っていないし読んでもいるのだが、これは佐々木なるお方が推奨する古川日出男とかを読まねばならんのだろうと思って読み始めたが、三島賞受賞作は実につまらなかった。この人は通俗作家らしいので、そっちの代表作らしいアラビアなんとかの「大仰文体」に、またかとうんざりさせられた。 「大仰文体」は擬古典的なところもあるので、起源を探れば、中世の軍記物語や浄瑠璃にまで遡るし、歴史小説や大河ドラマ、ファンタジーやSFにも淵源するだろうが、私がはっきり最近の大仰文体の始祖と思えるのは、富野喜幸(由悠季)で、1979年のノベライゼーション『機動戦

    読んだけどつまらなかったよ - jun-jun1965の日記
    mshkh
    mshkh 2008/09/05
    「大仰文体」最近の小説の傾向にはついていけないものを感じますね...まあ,頭が固いせいかもしれんけど
  • 1