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私小説と文学に関するmshkhのブックマーク (2)

  • なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史

    信じられない話ですが、日では一時期、文学といえば私小説のことでした。 笑い事ではなく、その災禍はいまも希薄化しながら続いているとも言えます。 たとえば作家を〈自由業〉だと考える習慣は、この希薄化した災禍の一部です。 私小説に反対した後続の作家たちの作品も、読者にはほとんど私小説であるかのように、その生活の反映であるかのように読まれました。 では何故、私小説はそんなにも成功を収めたのでしょうか? それを知るには、日の近代文学の歴史を簡単におさらいする必要があります。 1.戯作者上がりの新聞記者 江戸時代を通じて、執筆専業でえたのは滝沢馬琴ひとりでした。 幕末~明治初期にかけて活躍した仮名垣魯文も、戯作者の兼業としては伝統的な売薬を営み、維新後は商品広告である「引札」の執筆で禄をはんでいました。 やがて日でも新聞という新しいメディアがはじまり、その会社員となり定収を得ることで魯文ははじ

    なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史
    mshkh
    mshkh 2014/08/13
    いかにも読書猿っぽいエントリ
  • 私小説の定義 - jun-jun1965の日記

    『週刊読書人』を立ち読みしたら、栗原さんの文藝時評で西村賢太をとりあげて、こういう自己戯画化小説を私小説と呼ぶのはどうか、みたいなことが書いてあった。 私小説という語は、このように定義なく恣意的に使われてきたわけで、漱石の『道草』など普通に考えれば私小説なのに、そうではない、と強弁され続けてきて、それはたとえば長塚節の『土』が明らかに自然主義小説なのに、長塚が自然派ではないからそうは言われなかった、と正宗白鳥が『自然主義盛衰史』で述べているとおりである。 鈴木登美『語られた自己』は、近代日の私小説言説を精査して、私小説言説は盛んだったが、結局私小説がまともに定義されたことはなかったとしている。 私小説の定義は、しかし難しく、たとえば保坂和志の『季節の記憶』のように、一見私小説のように見えて、実は保坂には子供はおらず虚構であるといった例、『若きウェルテルの悩み』のように、はっきりモデルもお

    私小説の定義 - jun-jun1965の日記
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