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ブックマーク / readingmonkey.blog.fc2.com (13)

  • なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史

    信じられない話ですが、日では一時期、文学といえば私小説のことでした。 笑い事ではなく、その災禍はいまも希薄化しながら続いているとも言えます。 たとえば作家を〈自由業〉だと考える習慣は、この希薄化した災禍の一部です。 私小説に反対した後続の作家たちの作品も、読者にはほとんど私小説であるかのように、その生活の反映であるかのように読まれました。 では何故、私小説はそんなにも成功を収めたのでしょうか? それを知るには、日の近代文学の歴史を簡単におさらいする必要があります。 1.戯作者上がりの新聞記者 江戸時代を通じて、執筆専業でえたのは滝沢馬琴ひとりでした。 幕末~明治初期にかけて活躍した仮名垣魯文も、戯作者の兼業としては伝統的な売薬を営み、維新後は商品広告である「引札」の執筆で禄をはんでいました。 やがて日でも新聞という新しいメディアがはじまり、その会社員となり定収を得ることで魯文ははじ

    なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史
    mshkh
    mshkh 2014/08/13
    いかにも読書猿っぽいエントリ
  • 文学新人賞の偏差値=この賞をとったらどれだけ本を出せるかをランキングしてみた

    今では作家になるには新人賞をとればいいのだと一般的に思われているが、これは意外に最近になってからの話である。 漱石も鴎外も新人賞をとらなかった(そんなものはなかった)。太宰治が世に出たのは、友人の檀一雄が金を借りて同人誌をつくってやったからだ。 もっと最近になっても、公募制の新人賞といえば江戸川乱歩賞と新潮新人賞と群像新人文学賞くらいしかなかった時代が相当長い。我々の知る作家の多くは、新人賞を経ずに作家となったのである。 新人賞の数をグラフにしてみると、80年台後半からこれまでとは異なる上昇トレンドが生じているが(『公募ガイド』はこの時期1988年に創刊した)、それとは段違いの〈新人賞爆発〉が2000年代から始まっている。 増えたのは新人賞の数だけではない。せいぜい1つか2つを選ぶだけだった新人賞に対して、ライトノベル系をはじめとして大量の受賞者を生む新人賞が続々登場した。〈新人賞爆発〉の

    文学新人賞の偏差値=この賞をとったらどれだけ本を出せるかをランキングしてみた
    mshkh
    mshkh 2013/11/23
    いっそのこと,新人がデビューするたびに新しい新人賞作って,その賞をあげちゃえばいいんじゃね?と思ったけど,確かそんなケースもあったような?/id:kana0355 さんのコメントで思い出した,メフィスト賞でした!
  • クレオパトラの最後の吐息の一部を今あなたが吸い込む確率に驚くべき

    人間の感覚は思う以上に正確で優秀だが、苦手分野ももちろんある。 そのひとつが頻度や確率を取り扱うことである。 したがって確率計算は、常識や日常感覚から外れることが多い。だからこそ確率は有益である。 以下では、問題自体に実用の含みはないが、常識や日常感覚との齟齬の大きさが啓発的だ(=びっくりすると忘れにくい)と思われるものを紹介する。 考えるのは、この記事のタイトルに掲げた「クレオパトラの最後の吐息の一部を今あなたが吸い込む確率」である。 我々は、ラプラスの魔ほども全知ではないから、推測するにはいくつかの仮定をおかなくてはならない。 クレオパトラと我々を隔てる2千年余りの月日は、彼女の吐息に含まれる分子が大気全体に拡散するには十分な長さであり、しかしまたそれら分子が消えたり地球外に出て行くほどには長くない、と考えよう。 こうしておくと、問題は、たくさんの(たとえば100個)玉の中に数個(たと

    クレオパトラの最後の吐息の一部を今あなたが吸い込む確率に驚くべき
    mshkh
    mshkh 2012/11/08
    これってフェルミ推定の有名なやつだよね.フェルミのやつは,クレオパトラじゃなくてシーザーだったような.
  • Three years of Sundays/史上もっとも静かなプレゼンテーション

    生まれも育ちも異なる二人は同じ学校、イエズス会が運営するラ・フレーシュ学院で学んだために、生涯友情を育み、それは17世紀に起こった近代科学の誕生に大きな役割を果たした。 ルネ・デカルト(1596-1650)は下級とは言えトゥレーヌ州の貴族の出であり、マラン・メルセンヌ(1588-1648)はパリの労務者の息子だった。メルセンヌは後に僧職へ進み、デカルトの方は職を転々としたり隠れ住んだり、生涯を漂泊のうちに過ごすこととなった。 1619年、メルセンヌは各地での托鉢修行から戻り、パリのアノンシアード修道院に居を構え、終生その地に過ごした。1623年頃から、当代の研究者たちと交際を広げ、やがてこの修道院は各地から最新の学問情報が集まるようになった。メルセンヌが手紙をやり取りし、あるいは修道院に通ってくる人物には、パスカル父子,ガッサンディ,ロベルバル GillesPersonne de Robe

    Three years of Sundays/史上もっとも静かなプレゼンテーション
    mshkh
    mshkh 2012/09/08
    Mathematica で FactorInteger[2^67-1] を計算すると一瞬で答が出る.まあこれは因数を表で持ってる可能性もあるけど.それでも Three years of Sundays と比べればいろいろと感慨は深いなあ
  • 秀樹のばか-日本初のノーベル賞受賞者の愚問はいかに人々を活気づけたか?

    ソースはあの森毅なので真偽のほどに自信はないが、たとえばラ・フォンテーヌの寓話詩がたとえ事実と一致しなくとも(狂ったデモクリトスを診察したヒポクラテス、二人が親友になったというのは史実だろうか)人を真実に導く何事かを語っているように、この逸話も聞き留むべきものを備えているように思うので、いつのもましてうろ覚えのままに書き出してみる。 森毅は、晩年の湯川秀樹の人柄をしのばせるエピソードをいくつか紹介している。 最初のは森敦が森毅に教えてた話。 おそらく少人数を前にしての講義だったのだろう。 よくできる学生が、湯川が黒板で展開する数式に誤りを見つけた。 それを指摘すると、湯川はうーんとうなり、しばらく考えたが何ともすることができず、立ち往生してしまった。 それから「ちょっと待っとき」と言って、ぷいと教室を出た湯川は、しばらくすると岡潔(数学者)を連れて教室に戻ってきた。 「これなんやけど」 と

    秀樹のばか-日本初のノーベル賞受賞者の愚問はいかに人々を活気づけたか?
    mshkh
    mshkh 2012/08/01
    湯川秀樹と岡潔ってどっちもいろんな意味でレジェンドだよなあ… その二人のこんな場面をリアルタイムで見られるとか夢のような話.
  • (保存版)新入生のためのスタディ・スキルまとめ

    もうすぐ新学期なので、新入生向けに、これまでの記事をまとめてみた。 べる 独学者に必要な生活技術は、自炊にはじまる。 自立した人間とは、つまるところ自分に必要なべ物を自分で用意できる人間のことである。 これが自己陶冶の前提であり、最初の一歩でもある。 難しい話はさて置いても、ろくなものをってないと、確実に体調はおかしくなる。風邪が何日も治らなくなる。出掛ける気力も失われて、心身の状態はスパイラルに悪化していく。 パフォーマンスが落ちてきた、集中力が落ちてきたという自覚があるなら-----集中力とは、ぶっちゃけ体力のことだ-----、薬剤やドリンク剤を口に放り込むよりも、まともにって寝た方が早い。効果も高い。 ・サラダからはじめよ/新入生のための一人飯ハック 読書猿Classic: between / beyond readers 当はこの記事はシリーズ化するはずだったのだが(せめ

    (保存版)新入生のためのスタディ・スキルまとめ
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    mshkh 2012/03/27
    はてぶが500くらいつくと予想
  • 日本人が英語ができた時代→ネットで読める至宝の英語参考書

    英語教育の専門家といわれる人たちは、自分の過去を棚にあげて、受験参考書など知らないというような顔をしたがる(当にそうだった幸運な人はもちろん結構)。偏差値、業者テスト、予備校、塾通い、学参、問題集、単語集など現実の教育・学習環境には目をつぶって、コミュニケーションとかテスティングとかのきれい事ばかりを説く。」 (伊村元道(1993)「英語教育の中の受験参考書」『現代英語教育』30(1)) は、日英語教育史で従来手薄*1であった〈受験英語〉を扱った好書である。 *1 英語教育史の中で受験英語参考書を取り上げた研究としては、たとえば次のものがある。 荒牧鉄雄 (1968)「受験英語」日の英学100年編集部編.『日の英学100年大正編』 pp.327-337.研究社. 速川和男 (1990)「英語学習参考書の研究丁英文解釈参考書の系譜(1)」 『日英語教育史研究』第5号. pp.1

    日本人が英語ができた時代→ネットで読める至宝の英語参考書
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    mshkh 2011/11/01
    これは面白いなあ
  • ポリアだけじゃない問題解決の考え方/勘どころを教える数学の11冊

    故あって《数学を教える》ことについてのを読んでいた。目にしたものは、どれもしびれるほど面白い。 思えば先日Amazonで一時ベストセラーになってたG. ポリア『いかにして問題をとくか』(クローズアップ現代で取り上げられてたことを教えていただいた方々遅ればせながらありがとう)だって数学書というより(そして数学啓蒙書というより)も、数学教育書だった。 ところで数学について、解き方は教えられても、考え方は教えるのは無理だと考える人は今でも多い。 そういえば、はやりの中学数学やりなおしなどでも、結局のところ「こんな風に解け」としか言っていない。まったく、あんなものどこがいいんだか。 そうやれば解けることは分かるけれど、当に知りたいと思うのは「どうしたらそういう手順を自前で思いつけるのか」ということなのだ。 『いかにして問題をとくか』のあまりに有名な一節。 「この解法はうまくて間違いがないよう

    ポリアだけじゃない問題解決の考え方/勘どころを教える数学の11冊
  • iPhone/iPod touchで数学する24の方法(アプリ)

    最強はWolfram Alpha WolframAlpha カテゴリ: 辞書/辞典/その他 価格: ¥170 最有名数式処理システムMathematicaでできることができる。しかも、かなりいい加減に入力しても、なんとか善意に解釈して計算してくれる。数式を投げれば、方程式と見なして解いてみたりグラフを書いてみたりいたせりつくせりである。計算過程を見せてくれるオプションもある。 欠点は二つ。ひとつはhttp://www.wolframalpha.com/にアクセスすれば無料でできるのに、アプリは有料であること(最初の値段設定¥5,800は今や伝説である)。もうひとつはネットに接続しないと使えないこと。 しかし電波が届かないからといって、ネットにつなげないからといって、我々は計算をやめる訳にはいかないのだ。 最愛はMathStudio (SpaceTime - Scientific compu

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  • これがほんとの禁書目録/INDEX LIBRORVM PROHIBITORVM -- 1948 読書猿Classic: between / beyond readers

    ローマ・カトリック教会では、トリエント公会議の後に禁書目録の作成の方法を定め、1564年に規範となるべき禁書目録Index librorum prohibitorum を作成した。禁書目録は1948年まで作成され(ただし追加は続き、例えばアンドレ・ジイドは1952年、サルトルは1959年に禁書目録に追加されている)、1966年6月14日の教理省宣言および同年11月15日の同省教令まで、教会法としての効力を持ち続けた。 禁止される事項は、読むことはもちろんのこと、出版 、閲読 、保持 、販売 、翻訳 、他人へその存在を教えることなどを及んでいた。もっとも、禁書目録に載ったものだけが禁じられた書ではなく、他にも多くの書物が、自然法および旧教会法典(1917)の一般規定(第1399条)によって禁じられていた。 また、1966年の通告には,禁書目録は、教会法的効力を有しないにせよ、自然法が要求して

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    mshkh 2010/12/27
    いろいろ考えさせる本のリスト
  • 書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ

    書き物をしていて煮詰まっているという人には、いつもする話があるから、今日はそれを紹介しよう。 レヴィ=ストロースはこんな風に書く。 「私のなかには画家と細工師がおり、たがいに仕事を引き継ぐのです。 カンバスに向うまえにデッサンをする画家のように最初の段階では、まず書物全体の草稿をざっと書くことからはじめます。 そのさい自分に課する唯一の規律は決して中断しないことです。 同じことを繰り返したり、中途半端な文章があったり、なんの意味もない文章がまじっていたりしてもかまいません。 大事なのはただひとつ、とにかくひとつの原稿を産み出すこと。 もしかしたらそれは化物のようなものかもしれませんが、とにかく終わりまで書かれていることが大切なのです。 そうしておいてはじめて私は執筆にとりかかることができます。そしてそれは一種の細工に近い作業なのです。 事実、問題は不出来な文章をきちんと書き直すことではなく

    書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ
  • レファレンスこの一冊/プロットにつまったら吉川英治・手塚治虫も使った『大語園』

    大正・昭和期に圧倒的な人気で大衆小説というジャンルを確立した吉川英治や「マンガの神様」手塚治虫が、創作の参考にしたというレファレンスがある。 編者は、日における児童文学の立役者の一人、巌谷小波。 小波は「こがね丸」をはじめに多くの童話を書き、また児童雑誌や叢書を刊行したが、その一方で多くの口碑・説話を蒐集し、まとめて世に出すことをライフワークにしていた。 今日、我々が「昔話」として知る『桃太郎』や『花咲爺』といった物語の共有財産(common narratives)は、小波のアレンジとプロデュースでもって、彼の雑誌を通じて子どもたちに届けられたものである。 小波が編集した、この分野の書籍には『日昔噺』全24冊(1894)、『日お伽噺』全24冊(1896)、『世界お伽噺』全100冊(1899)、『明治お伽噺』全12冊(1904)、『世界お伽文庫』全50冊(1908)等がある。 こうした

    レファレンスこの一冊/プロットにつまったら吉川英治・手塚治虫も使った『大語園』
  • 岩波書店と『世界』と風樹文庫

    『世界』という雑誌があった(今もあるか)。 さて、『世界』といえば「進歩的知識人」の雑誌みたいに思われているらしいので(それで『文芸春秋』と対比したまであるらしい)、次のエピソードを紹介しておく。 『世界』創刊号(1946.1月号)の巻頭を飾った「剛毅と真実と知恵と」という論文がある。 安倍能成氏が書いたものである。 創刊準備の会合で、この巻頭論文の「謳い文句」を検討していた同人たちの中で、安倍氏はどうしても「天皇制護持」というのを入れたいと主張した。 同調者も何人かいた。 歴史に「もし」はないが、このままいっていれば、この雑誌の様子も随分ちがったことになっていただろう。 これに反対を唱えたのが大内兵衛氏であり、議論は平行線、にっちもさっちもいかなくなった。 最終的に 「そんなことどうでもいいじゃないか」 と鶴の一声を出したのが志賀直哉氏だった。 もうひとつ、創刊当時のエピソードを。 こ

    岩波書店と『世界』と風樹文庫
    mshkh
    mshkh 2010/05/18
    不勉強で,風樹文庫の話は初めて聞いた.興味深い
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