1944年7月のサイパン陥落後、戦火は沖縄へと迫っていた。軍の食料を確保するため、そして子どもたち、女性、お年寄りは足手まといになるからと、本土や台湾への疎開が進められた。当時9歳だった平良啓子さんは、1944年8月21日夜、国民学校の児童や教員、一般疎開者計約1,800人と共に、対馬丸に乗船し長崎へと向かった。 けれども当時、海はすでに戦場だった。それまでに沖縄関係者を乗せた船17隻が米軍の攻撃などを受け遭難船となり、2,700人以上が犠牲となっていた。 翌22日夜、鹿児島県の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、対馬丸はわずか11分ほどで沈没してしまった。判明しているだけでも1,500人近くが犠牲となり、そのうち約800人が子どもたちだった。平良さんは激しい波に飲み込まれそうになりながらも、何とか一命をとりとめた。 あれから今年で76年。当時の記憶と共に見つめる今の社会は、平良さんの目