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1400に関するnabinnoのブックマーク (9)

  • 御所巻 - Wikipedia

    御所巻(ごしょまき)は、室町幕府において諸大名の軍勢が将軍の御所を取り囲み[1]、幕政に対して要求や異議申し立てを行った行為[2]。 概要[編集] 室町時代(南北朝時代・戦国時代を含む)には大名や国人領主の家において家臣団が一揆を結成して、家督問題や家政一般で異議を申し立てることがあったが、その幕府版といえるものである。室町幕府では将軍(室町殿)が諸大名に重大な事案について諮問したり協議を行ったりして方針を定めることがあったが、それ以外にも幕府の施策について大名側から異議を表すために意見を申し入れることがあった[2]。 御所巻の際には事前に箇条書きにした訴状に諸大名が連署して将軍に提出するなどの「作法」が存在していた[3]が、家臣である守護大名が主君である将軍の御所を包囲して異議を申し立てる行為は既存の主従関係を脅かす不穏な行為とみなされ、社会的には決して好意的にはみられなかった[4]。

  • 小氷期 - Wikipedia

    世界の平均気温の変化は、小氷期が地球全体で明確に異なる時期ではなく、最近の地球温暖化に先立つ長い気温低下の終わりであったことを示している[1]。 小氷期(しょうひょうき、英:Little Ice Age, LIA)とは、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のことである。小氷河時代、ミニ氷河期ともいう。この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。 気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述している。なお、氷河学的にはこの間や現在なども含めて氷期の中でも比較的温暖な時期が続く、間氷期にあたる。 北半球[編集] 小氷期の間、世界の多くの場所で厳冬がもたらされたが最も詳細な記録が残っているのはヨーロッパと北アメリカである。17世紀半ば、スイス・アルプスの氷河は徐々

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  • 星形要塞 - Wikipedia

    星形要塞(ほしがたようさい)は、火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。イタリア式築城術(イタリアしきちくじょうじゅつ)、稜堡式城郭(りょうほうしきじょうかく・りょうほしきじょうかく)、ヴォーバン様式(ヴォーバンようしき)という名で分類されることもある。 1750年の状態に復元されたブルタング要塞 オランダ 概要[編集] 角堡(かくほう) 掩郭(えんかく) これらは最初、15世紀中ごろのイタリアで見られることとなった。中世に見られた垂直で高い城壁を持つ円形の城塞は、火砲の普及後、その脆弱性が露わになった。一方、星形要塞は多くの稜堡(三角形の突端部:bastion)を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されている。 15世紀末から16世紀初めにかけてフランス軍がイタリア半島へ侵攻した。フランス軍は新型の火砲を装備しており、伝統的な中世からの城壁は容易に破壊する

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  • 近世 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "近世" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年10月) 近世(きんせい、英語: early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。 概説[編集] 近世を加えた4期の時代区分(古代・中世・近世・近代)は、ルネサンスを起源とする伝統的な3期の時代区分の限界の上に案出されたもの。その始まりと終わりには諸説ある。 現在では、西洋史でも東洋史でも適用されている。西洋史上の「temps moderne」(フランス語)、「Frühe Neuzeit」(ドイツ語)、或

  • バラッド - Wikipedia

    この項目では、バラッドと呼ばれる音楽ジャンルと関連事項について説明しています。バラッドのその他の用法については「バラッド (曖昧さ回避)」をご覧ください。 バラッド「2羽のカラス」(アーサー・ラッカム のイラスト) バラッド(英: ballad)は、イギリスなどで伝承されてきた物語や寓意のある歌のことであり、通常は詩の語りや、語るような曲調を含む。過去の出来事についての韻文による歴史物語であり、武勇伝やロマンス・社会諷刺・政治がテーマとなるが、バラッドの内容はほとんど必然的に破局が訪れる。 フランス語のバラード(仏: ballade)に相当する語である。この項目におけるバラッド以外としてのバラッド、バラード(フランスの詩やクラシック音楽、ポピュラー音楽でのジャンル)についてはバラードを参照。 特徴など[編集] バラッドには、以下のようないくつかの特徴がある。 物語が詠み込まれている。物語の

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  • 南スラヴ人 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "南スラヴ人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年9月) 南スラヴ人(みなみスラヴじん)は、スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。 これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア

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  • ボシュニャク人 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ボシュニャク人" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年12月) 旧ユーゴスラビアの民族分布(2008年)。緑がボシュニャク人。 ボシュニャク人(ボシュニャクじん、ボスニア語: 男性単数: Bošnjak/Бошњак [boʃɲǎːk]、女性単数: Bošnjakinja/Бошњакиња、男性複数: Bošnjaci/Бошњаци)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア

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  • モスクワ大公国 - Wikipedia

    モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、 ロシア語: Московское великое княжество マスコフスカエ・ヴェリーカエ・クニャージェストヴァ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。初めは小国であったが、周辺の諸公国を併合していき、1480年にはモンゴル族のジョチ・ウルスの支配を脱して、モスクワ大公国となった。モスクワ大公は主権を得て、北東ロシア政治的統一を達成した。ロシア帝国の前身である。別名モスクワ・ルーシ(ロシア語: Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ、モスクワ・ロシア)、モスクワ公国、モスコビア(Moskovie)である[1]。 概要[編集] ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーの死後、その末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領がモスクワ大公国の起源である。127

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  • 室町時代 - Wikipedia

    室町時代(むろまちじだい)は、日歴史において室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代を指す。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。 概要[編集] 広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が建武式目を制定した1336年(建武3年/南朝:延元元年)または征夷大将軍に補任された1338年(建武5年/延元3年)から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年(元亀4年)までの237年間、もしくは235年間を指す。 狭義では建武新政から明徳の和約による南北朝合一(1392年、明徳3年/元中9年)までの最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年、応仁元年)または明応の政変(1493年、明応2年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間から100年間を室町時代と区分する場合もある。 歴史[編集] 1336年、後醍醐天

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