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tankaに関するnabinnoのブックマーク (25)

  • アララギ - Wikipedia

    『アララギ』(あららぎ)は、日の短歌結社誌。1903年(明治36年)に伊藤左千夫をはじめとした正岡子規門下の歌人らが集まった根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を源流とし、1908年(明治41年)に左千夫や蕨真一郎を中心に『阿羅々木』として創刊。翌年、島木赤彦が創刊した『比牟呂』と合併し、『アララギ』と改題された[1][2]。 編集体制は当初左千夫を中心とし、古泉千樫、斎藤茂吉、石原純らが交替で編集にあたった。しかし編集主任であった千樫の編集体制のもとでは遅刊休刊が続き、左千夫が死去する直前の1913年(大正2年)には茂吉らとの内部分裂が深刻となり、休刊・廃刊も視野に入るほどの危機に陥った。茂吉は赤彦に窮状を訴え、業を煮やした赤彦が長野県から上京。編集発行人を一時的に千樫から茂吉に交代した。1914年(大正3年)6月より赤彦らと親交の深い岩波茂雄が経営する岩波書店にて販売取扱いを始めた。1915

  • とんち道場 - 「大喜利・謎かけ・川柳」などを投稿・評価して楽しむサービス

    大喜利・謎かけ・川柳などを投稿したり評価して楽しむことのできるWebサービスです。 Twitterのアカウントを取得しているユーザーなら誰でも参加できます。 参加したい場合はサイトの右上にある「ログインする」ボタンからログインしてください。

  • フェミニンページ

    梅内さんの歌は繊細でありつつ大胆でもある。手堅く巧みな作風の背景に、じつは振幅の大きな感情が吹き荒れている。たっぷりと悩んだり傷ついたりしながら、どんなときも必ず顔を上げて歩み出そうとする。そんな大柄な華やぎは彼女の心身の健やかさによるものだろう。第一歌集以来ののびややかに、歌集では旅先の事物に寄せる感性の輝きや社会的事件に対する鋭い認識が加わり、今を生きる女性の体温を新鮮に伝えてくる。

  • 歌合 - Wikipedia

    歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組に分け、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。 概要[編集] 審判役を判者(はんざ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんし)という。この判詞はだんだんと文学的な性格を帯びるようになり、歌論へとつながっていった。役割は判者の他に方人(かたうど;歌を提出する者)、念人(おもいびと;自陣の歌を褒め、弁護する役)とがあり、左右両陣の念人による討議によって判者の判定を導くものである。 平安時代に始まり、記録にあるものとしては仁和元年(885年)の在民部卿家歌合が最古のものとされる。他に天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合などが名高い。基的に「遊び」であるが、平安期には歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったため今日行われるような気軽なものではない。また、時代が下るにつれ

    歌合 - Wikipedia
  • 俵万智のチョコレートBOX

    【book】グラフィック・デザイナーのU.G.サトーさんとコラボして、二十四節気にちなんで私が24の歌を披露し、サトーさんが24枚の富士山を描いた楽しい絵『富士山うたごよみ』が完成しました。福音館書店より発売中です。

  • 俵万智 (@tawara_machi) | Twitter

    短歌を作っています。ふだん三十一文字なので、ここはとても広く感じます。「肉声を知らない人のつぶやきを目で読んでいる冬の片隅」

    俵万智 (@tawara_machi) | Twitter
  • 吉田裕子(塾講師)の国語エッセー | 古典(古文・漢文)・近現代文学・歌舞伎・狂言

    吉田裕子(塾講師)の国語エッセー | 古典(古文・漢文)・近現代文学・歌舞伎・狂言”国語を学ぶことで、感受性と対話力を磨いたら、人生はもっと楽しい。”という思いのもと、ブログや書籍で情報を発信する他、定期的に「大人向け古典講座」を開催しています。予備校・高校・カルチャースクールの講師、ライター。 気づきと笑いに満ちた、楽しい「国語」「古典」をお届けします。予備校講師・カルチャースクール講師(二子玉川 ・市川 ・新百合ヶ丘 )・ライターとして活動しています。 ★「初めまして」な方、講演・執筆などの依頼・お問合せは ホームページ から

  • List of kigo - Wikipedia

    This is a list of kigo, which are words or phrases that are associated with a particular season in Japanese poetry. They provide an economy of expression that is especially valuable in the very short haiku, as well as the longer linked-verse forms renku and renga, to indicate the season referenced in the poem or stanza. Cherry trees from Japan around the Tidal Basin in Washington, D.C. Cherry blos

    List of kigo - Wikipedia
  • 巻1から巻20まで | たのしい万葉集

    万葉集は全20巻あります。ここには巻1から巻20まで概要を載せています。巻ごとの歌は、それぞれの巻のページをごらんください。 第1巻(0001~0084) 第一巻は雑歌(ぞうか)として天皇の時代ごとに歌が整理されています。また、額田王(ぬかたのおおきみ)や柿人麻呂(かきのもとのひとまろ)などの有名な歌が沢山あります。 第2巻(0085~0234) 天皇の時代ごとに分類し、それぞれ年代順に載せています。柿人麻呂(かきのもとのひとまろ)のすぐれた挽歌(ばんか)があります。 第3巻(0235~0483) 雑歌(ぞうか)・譬喩(ひゆ)歌・挽歌(ばんか)から成っています。 第4巻(0484~0792) 相聞(そうもん)だけで構成されています。大伴家持(おおとものやかもち)と女性たちとの贈答歌が多く載せられています。 第5巻(0793~0906) 雑歌(ぞうか)だけの巻です。大伴旅人(おおとものた

  • Man'yōshū - Wikipedia

    This article needs additional citations for verification. Please help improve this article by adding citations to reliable sources. Unsourced material may be challenged and removed. Find sources: "Man'yōshū" – news · newspapers · books · scholar · JSTOR (May 2018) (Learn how and when to remove this message) A replica of a Man'yōshū poem No. 8, by Nukata no Ōkimi The Man'yōshū (万葉集, pronounced [maɰ

  • 中島歌子 - Wikipedia

    中島 歌子(なかじま うたこ、1845年1月21日(弘化元年12月14日) - 1903年(明治36年)1月30日)は、日の歌人。和歌と書を教える私塾「萩の舎」を主宰し、明治時代の上流・中級階級の子女を多く集め、成功した。歌人としてより、樋口一葉、三宅花圃の師匠として名を残している。 略歴[編集] 1845年1月21日(弘化元年12月14日)、武蔵国入間郡森戸村(現・埼玉県坂戸市)に生まれる。父・中島又衛門は農民ながら村名主であり豪商。母・福島いく(幾子)の実家も江戸通いの船で商売をしていた幕府御用達の豪商で、いくは川越藩の奥に仕えていたこともある[1]。 歌子が生まれてほどなく江戸の牛込揚場町に移り住む[1]。歌子の親戚(『坂戸人物誌』)や藤井公明(『続樋口一葉研究』)によると、両親は小石川安藤坂の伝通門前にあった水戸藩御用達宿「池田屋」の加藤佐右衛門の夫婦養子となり(形式上の養子であ

  • 石川啄木 - Wikipedia

    石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年〈明治19年〉2月20日 - 1912年(明治45年〉4月13日)は、岩手県出身の日の歌人、詩人。「啄木」は雅号で、名は石川 一(いしかわ はじめ)。 旧制盛岡中学校中退後、『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現し、満19歳で最初の詩集を刊行した[1]。しかし、経済的事情から代用教員や新聞記者として勤める傍ら小説家を志すも失敗、東京で新聞の校正係になってから1910年に刊行した初の歌集『一握の砂』は三行分かち書き形式で生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得た[1]。また、同年に起きた幸徳事件(大逆事件)を契機として、社会主義への関心を深め、文学評論も執筆したが、結核により満26歳で没した[1]。 生涯[編集] 出生から盛岡中学校時代まで[編集] 岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父

    石川啄木 - Wikipedia
  • 社会詠 - Wikipedia

    人の生活する場である社会と社会に対する認識等を主題として詠んだ短歌のことをいう。短歌の対象を分類する概念で、山川草木、花鳥風月等の自然を詠みこんだいわゆる自然詠と対照される分野であるとされる。 社会詠は、1920年代後半のいわゆるプロレタリア短歌、第二次世界大戦後の「人民短歌」の「人民大衆の生活実感を根底とした」歌、いわゆる「60年安保」を詠んだ歌、65年以降のベトナム戦争の歌などが知られているが、日社会において高度経済成長が達成された1970年代以降は、直接的な社会詠として事件等を取り上げることが大変困難となっている。現在は現代社会のひずみから生じる諸問題を取り上げる社会性のある内向的な諷詠が社会詠の主流となっている。 「赤紙の表紙手擦れし国禁の書(ふみ)を行李(かうり)の底にさがす日」(石川啄木) 啄木は、自分の経済的な苦しみの原因は社会にあると考え、社会主義思想に関心を持ち国禁の書

  • 正岡子規 - Wikipedia

    松山市にある子規記念博物館 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈旧暦慶応3年9月17日〉- 1902年〈明治35年〉9月19日)[1]は、日の俳人、歌人、国語学研究家。子規は筆名で、名は正岡 常規(まさおか つねのり)[1]。幼名を處之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた[2]。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。 伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に生まれる[2]。同地は伊予松山藩領で、父は藩士の正岡隼太常尚[2](1833年 - 1872年)、母の八重(1845年 - 1927年)は藩儒大原観山の長女[2]で、長男であった。 1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外

    正岡子規 - Wikipedia
  • 自然詠 - Wikipedia

    自然詠という分類は、戦後になって社会詠が盛んに作られるようになってから生じたものであり、当初は、正岡子規によって提唱された、歌の手段、方法としての「写生」の提唱がその根にある。後に、子規の言う「写生」は、客観と主観のそれぞれの立場からの見解の対立、結社の中の立場としての対立など様々な形の対立を生んだが、当然にして、その結論は自然を詠んだ歌が、単なる自然の描写の歌であって、主観的立場がないということはあり得ないという方向であった。 「沖べより氷やぶるる湖(みづうみ)の波のひびきのひろがり聞ゆ」 これは、「写生道」、「鍛錬道」を説き、「写生と称するもの外的事象の写生に非ずして内的生命唯一真相の捕捉なり」と言った島木赤彦の歌であるが、単なる自然描写のようではあるが、そうではない。赤彦の住む諏訪湖を望む小高い丘から見ると、湖の沖より氷が解け広がり波打ってくるのが見える。音が聞こえてくるようだ。冬

    nabinno
    nabinno 2014/07/02
    [[naturalism][shiki-masaoka][mokichi-saito][1890][1900]
  • http://www.nhk.or.jp/tankahaiku/tanka_tokusen/

  • http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/haikupeji.htm

  • モーラ - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "モーラ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年10月) 音韻論におけるモーラ(英: mora)は、音節より小さい単位であり、音節量(英語: Syllable weight)を測るのに用いられる。ただし、音節の構成要素とモーラとの対応関係は言語により異なる[1]。日語においては、モーラは川柳などの韻文のリズムの基単位であり[2]、日語話者はすべてのモーラに等しい長さを感じるとされる[3]。拍(はく)やモラとも呼ばれる。 古典詩における韻律用語であるラテン語の mŏra [ˈmɔra](モラ)の転用(日語におけ

  • 笹井宏之 - Wikipedia

    佐賀県西松浦郡有田町出身。15歳の頃から身体表現性障害という難病で寝たきりになり日常生活もままならず、佐賀県立武雄高等学校を中退。2004年、インターネット上の短歌サイトや地元紙に作歌・投稿を始め、地元の佐賀新聞読者文芸で注目される。毎週木曜日に掲載される佐賀新聞の読者文芸には、「名前が載ると、じいちゃん、ばあちゃんがよろこんでくれるから」と「笹井宏之」ではなく「有田町 筒井宏之」の名で毎週ほとんど欠かさず投稿していた。2005年に「数えてゆけば会えます」で第4回歌葉新人賞を受賞。2007年、未来短歌会入会、加藤治郎に師事。同年、未来賞受賞。 馬場あき子に「出色の才能」、高野公彦に「詩的な飛躍があって透明度が高い」ときわめて高い評価を受け、インターネット短歌界から生まれたほとんど最初の歌人として将来を嘱望されていたが、インフルエンザから来る心臓麻痺により26歳で夭折した[1]。 2009

  • 小倉百人一首 - Wikisource

    書誌情報姉妹プロジェクトWikipediaの記事, Commonsギャラリ, 引用集, テキスト, データ項目 百人一首(ひゃくにん いっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。— ウィキペディア日語版「百人一首」より。 『小倉百人一首』に収められている歌の一覧 歌番号 句 (括弧内は歴史的仮名遣による読み、 太字は決まり字) 作者 (括弧内は歴史的仮名遣による読み) 出典