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現代史と戦後に関するnagaichiのブックマーク (56)

  • 日本人は本当に「ウォーギルトプログラム」でGHQに洗脳されたのか(賀茂 道子) @gendai_biz

    太平洋戦争終結後、日を占領した連合国とGHQは、「ウォー・ギルト・プログラム」という「洗脳政策」をとり、日人に罪の意識を植えつけた――そんな俗説がいまも根強く残っている。この見方は、はたして正しいのだろうか? 膨大な資料にもとづき、従来の説に一石を投じる『ウォー・ギルト・プログラム』を上梓した賀茂道子氏が、あの戦争で日が犯した「罪」の実像を解き明かす。 日が「無条件降伏」を突きつけられた理由 今年も8月15日がやってきた。今から73年前のこの日、国民の多くが、天皇の玉音放送によって敗戦の事実を知った。それ以来、8月15日は終戦記念日として日人の心に深く刻み込まれている。 しかし、実は、国際法上の日の敗戦の日は、降伏文書に署名した9月2日であり、また、ポツダム宣言を受諾したのは8月14日である。こうした事実は意外と知られていない。 日の終戦にまつわる話でもう一つ誤解されているの

    日本人は本当に「ウォーギルトプログラム」でGHQに洗脳されたのか(賀茂 道子) @gendai_biz
  • 新崎盛暉さん死去 沖縄大学元学長、沖縄現代史研究の第一人者 82歳 | 沖縄タイムス+プラス

    沖縄現代史研究の第一人者で社会運動に尽力した沖縄大学元学長の新崎盛暉(あらさき・もりてる)さんが31日午後5時38分、肺炎のため南風原町内の病院で死去した。東京都出身。82歳。告別式は5日、那覇市首里当蔵町3の4の1、万松院で。喪主は・恵子(けいこ)さん。

    新崎盛暉さん死去 沖縄大学元学長、沖縄現代史研究の第一人者 82歳 | 沖縄タイムス+プラス
  • 戦後一貫して日本社会には反戦の空気があったというのは実は誤解で、1950年代〜60年代ぐらいは日本兵が活躍する戦争映画とかたくさんあったんですよね。

    戦争の悲惨さを知っている世代(85歳以上)は比較的皇国史観だったりしたので、その人達に教えられた若い世代(団塊の世代)は感化されたというより、反発の方が大きかったんじゃないかと思います。

    戦後一貫して日本社会には反戦の空気があったというのは実は誤解で、1950年代〜60年代ぐらいは日本兵が活躍する戦争映画とかたくさんあったんですよね。
  • 憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに:朝日新聞デジタル

    「これでいいじゃないか」――。日国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ノートには、46年9月ごろ、宮沢氏ら貴族院特別委員会のメンバーが幣原氏から首相官邸に呼ばれ、「内話を聞かされた」なかでの、幣原氏と昭和天皇のやりとりが備忘録的に記されていた。高見勝利・上智大名誉教授(憲法)がメモの記述を見つけた。ノートの原は立教大学図書館に所蔵されている。 幣原氏と面談した際の昭和天皇の発言に関しては、GHQ作成の資料に、天皇自身が徹底的な改革を望み、草案を「全面的に支持する」と述べたとの記載があり、様々な文献にも引用

    憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに:朝日新聞デジタル
    nagaichi
    nagaichi 2017/05/03
    戦後にも「聖断」があったと。
  • レッドパージ被害者救え/参院内閣委 仁比氏、官房長官に迫る

    共産党の仁比聡平議員は13日の参院内閣委員会で、「レッドパージ」の被害者に対する早急な名誉回復と、人権侵害救済を菅義偉官房長官に強く求めました。 レッドパージは、1949~51年、アメリカ占領軍の指示と、吉田内閣の閣議決定によって強行された日共産党員とその支持者、労働組合員を、公職や企業から追放した「戦後最大の人権侵害」です。推定4万人以上が職場を奪われました。 仁比氏は、レッドパージ被害者の要望書と、日弁連をはじめ14回にわたる「憲法や世界人権宣言の思想良心の自由を、著しく損なう人権侵害」をただす勧告を示し、生きているうちの名誉回復が求められていると紹介。1950年9月5日の閣議決定「共産主義者等の公職からの排除に関する件」の原文を示しました。 同決定には、大橋武夫法務総裁(当時)が、周到に準備し、吉田総理の強い意思で閣議決定されたことが示されています。仁比氏は、「政府はマッカーサ

    レッドパージ被害者救え/参院内閣委 仁比氏、官房長官に迫る
  • 東京新聞:「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料:政治(TOKYO Web)

    国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。 (安藤美由紀、北條香子)  九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原首相の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。  堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は

    東京新聞:「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料:政治(TOKYO Web)
  • ラストエンペラー、極秘の護送 旧ソ連軍将校が記録:朝日新聞デジタル

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    ラストエンペラー、極秘の護送 旧ソ連軍将校が記録:朝日新聞デジタル
  • ストーリー:シベリア抑留死「村山名簿」(その1) 4万6300人の名刻む - 毎日新聞

    就寝前には必ず2年前に亡くなった夫の村山常雄さんの写真に向かって声をかけるというのカズさん=さいたま市大宮区で2016年4月7日、宮間俊樹撮影 火葬されたばかりの骨は、がっしりと太かった。村山常雄さん(享年88)。骨つぼに入りきらない骨は生前の巨大な功績を象徴していた。2014年5月13日、さいたま市。私は近親者で営まれた葬儀に参列させてもらった。 第二次大戦後、ソ連は旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島北部などにいた日の軍人や軍属、公務員ら約60万人を連行した。酷寒と飢えの中で森林伐採や土木工事に従事させられ、「シベリア抑留」による死者は研究者の推計で6万人とされる。村山さんは抑留被害者であり、抑留研究の第一人者だった。 1991年、ソ連はようやく死亡者名簿を提出し、厚生省(当時)が公表したが、ロシア語を音訳した名簿は「トーイヨタキ・ホンデゼロ」など、日人とは思えない名前が並んでいた。

    ストーリー:シベリア抑留死「村山名簿」(その1) 4万6300人の名刻む - 毎日新聞
  • 東京新聞:「皇紀」刻んだレール発見 京急線で初めて 子安駅の支柱から:神奈川(TOKYO Web)

    京急線子安駅(横浜市神奈川区)で、西暦の代わりに「皇紀」を製造年として刻印した古いレールが見つかった。皇紀は、初代の神武天皇の即位年とされる紀元前660年を元年とし、戦時中は国威発揚のために盛んに使われた。京急によると、同社沿線で「皇紀」刻印のレールが見つかったのは初めてという。 (志村彰太) このレールは、同駅下りホームの屋根を支える柱のうちの一。京急によると高度成長期までは、摩耗して古くなったレールを支柱や柵などに再利用することがよくあり、京急では子安のほかに日ノ出町、川崎大師、追浜の各駅にもある。最も古いものは、一九〇〇年の英国製が日ノ出町駅にあるという。

  • 1948年に東京で撮影されたあの鮮明すぎる35mmフィルムの正体がわかった!! : himag

    このブログは今年の4月に開設したばかりだったので終戦の週にこの映像を思い出し、改めて記事として紹介してみることにしたのだ。 2015年8月10日に記事を公開してからシェアやRTにより大きな反響を呼び、さらに映像の中に1948年11月公開の映画「四十三丁目の奇蹟」のポスターが貼られていることを発見した人から1948年秋の映像ではないか?という指摘が寄せられた。 その後、クルマやスクーターなどに詳しい人からも1948年説を裏付ける情報をもらったので、元記事のタイトルや内容は変更せずに文末に新しく判明した事実を追記するカタチをとった。1946年と思って書いたので終戦直後というタイトルにしたが後に1948年と年代特定されたので終戦から3年後ということになる。 私も新橋の撮影ポイントに行ってカメラ位置を検証したり音楽PVで使われていた映像の元素材を何度も見たりしていたが、いくつかの疑問があった。 【

    1948年に東京で撮影されたあの鮮明すぎる35mmフィルムの正体がわかった!! : himag
    nagaichi
    nagaichi 2015/08/18
    「1948年秋の映像」「『東京ジョー』のスクリーンプロセス用に東京で撮影された素材のアウトテイク」「本編では使わなかったカットが何らかの経路で流出しアメリカのフィルム・アーカイブに登録された」
  • 時事ドットコム:戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止−蒋介石が早期決定・中国

    戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止−蒋介石が早期決定・中国 戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止−蒋介石が早期決定・中国 1945年6月に中華民国・国民政府が作成した日人戦犯リスト。トップに「日皇裕仁」(昭和天皇)と記載されている 日との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。 昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す−日米

    時事ドットコム:戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止−蒋介石が早期決定・中国
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  • 戦後、どん底の日本にカンボジアは優しかった 投資先として急成長、その苦難の歴史を知る | JBpress (ジェイビープレス)

    前回記事(「悪夢の歴史を乗り越え急発展するカンボジア」)で紹介したように、カンボジアは過去5年間のGDP平均成長率が7%に達し、生産拠点としても市場としても離陸しつつある。 しかし、ポル・ポト政権による虐殺、内戦、和平と現在に至るまでの道のりは非常に困難であった。特にポル・ポト政権による虐殺と内戦の記憶は、いまだにカンボジアに暗い影を落としている。 今回はそのようなカンボジアの歩み、そして戦後の日との関係について振り返ってみたい。

    戦後、どん底の日本にカンボジアは優しかった 投資先として急成長、その苦難の歴史を知る | JBpress (ジェイビープレス)
  • モービル天ぷら - Wikipedia

    モービル天ぷら(モービルてんぷら)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦後の沖縄県でべられた、エンジンオイル(モービル油、モビール油)で揚げた天ぷらのこと。モビール天ぷらともいう[1]。 概要[編集] 第二次世界大戦後の沖縄では、天ぷらを揚げる際に用油の代用として機械用減摩油が用いられた[1][2][3]。火にかけた油は強烈な臭いを放ち黒煙を上げたというが[4]、最高のご馳走であったとされ[1]、人気があった[2]。盆・正月、結婚式などでもされたという[5]。 この天ぷらをべた後は、吐き気、腹痛、下痢などの症状が出た[2][6]。尻からぬるぬると未消化の油が流れ出て服の外にまで浸透したとの複数の証言があり[7][8]、沖縄の一定の年齢以上の人間であれば、ほとんどが経験したといわれることがある[8]。死者も出ており[2][9]、極めて危険な行為である。 石油由来の鉱物油の場合、消化以

    nagaichi
    nagaichi 2015/05/11
    壮絶すぎて、お尻がもぞもぞする話。
  • 日本国憲法に勤労の義務が入った経緯 | Kousyoublog

    国憲法の国民の三大義務というと教育、勤労、納税ですが、元々旧大日帝国憲法には勤労の義務というものは無く、日国憲法になって勤労の義務が権利とセットで盛り込まれることになりました。wikipediaではその勤労の義務の由来について、こう書いてあります。勤労の義務 – Wikipedia この規定の由来については諸説あるが、一番有力なのは、元農林大臣の石黒忠篤や代議士の竹山祐太郎が、二宮尊徳の「報徳思想」の精神に則って、日国民が自らの勤労の力で太平洋戦争で荒廃した祖国を再建させてゆこうという発想から提案されたものだと言われている(橋伝左衛門・日農業研究所『石黒忠篤伝』(1969年、岩波書店))。なかなか興味深い記述ではあるんですが、帝国議会会議録データベースを漁ってみると勤労の義務を提案していたのは竹山代議士ではなく、穂積七郎という議員。かなり熱心に勤労の義務を盛り込むべく主張を繰

    日本国憲法に勤労の義務が入った経緯 | Kousyoublog
  • カンボジアの国境の町”ポイペト”ってどんなとこ?前編 - カンボジアのボジ子。

    ご訪問ありがとうございます! 当ブログはカンボジア情報ランキングに参加中です! クリック↓して頂けると励みになりまーす!!\(^0^)/ にほんブログ村 まずは謝罪から。 すみません、前回の日記で嘘つきました。 最初の中華に行く前に、 しゃけおにぎりべてました・・・。 ポイペトレポート第1弾! 私にとってもみなさんにとっても、あまり馴染みの無い地名だと思います。 カンボジアで出来た友達がポイペトでNPOとして活動している話を聞き、 「何がそこまで彼女を動かしているんだろう??」と 出会って以来ずっと不思議に思ってきた私ですが、 今回撮影のために初めてそこを訪れて、改めてスゴイと思いました。 何が、どうスゴかったのかは、おいおい書いていくことにしましょう。 てか。。。うわ!きったね! 半日バイクに乗って取材に回ったあとの、私の顔を拭いたトイレットペーパー(笑 当にスゴいんです、土ぼこりが

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  • 黒い噂に染められた笹川良一の実像とは?

    ──日財団の笹川陽平会長と最初に会った目的は、やはりハンセン病制圧活動に関してですか? そうですね。世界中、アフリカの奥地まで足を運んで活動しておられることは知ってました。そこまで旅を続けるっていうのはそうそうできることじゃない。何かを自分に課して活動してる印象がありました。その情熱とはどういうものなのかと。 ──妾(めかけ)の三男に生まれ認知もされず生活は貧窮。ようやく父・笹川良一と同居しても、徹底して下男扱い。小説を地で行く少年時代ですね。 陽平さんは「私なんかちっとも面白くないよ。女の話一つなし、バクチの仕事はしてるけど自分は全然しないし株券1枚持ってない。面白いとすれば、まあ妾の子だってことくらい」と。そこで、包み隠さず話してください、と言ったわけ。彼はそれに正面から応えたんですよ。 特異な親子関係が不可欠に ──陽平氏の内面を探っていくうちに、特異な親子関係が不可欠な要素になる

    黒い噂に染められた笹川良一の実像とは?
  • 『これ本当に日本?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1

    どうも、服部です。昭和30年代を舞台にした、2005年上映の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」や、その続編で2007年上映の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を観て、「いい時代だったんだな~」なんて思った方も多いんじゃないでしょうか。一方で、「『あの頃はよかった』は全部ウソ!」というキャッチコピーが付いた、2012年発行の「ALWAYS 地獄の三丁目 当は怖い昭和30年代」というが出版されていたりします。 実際にはどんな時代だったんでしょうか。残念ながら著者はそのころにはまだ存在していませんので、YouTubeで動画を探してみました。すると……、あったあったありました、結構アップされているもんですね。ということで、今回はニュース映像にみる、昭和30年代の日常をまとめてみました(それにしても、昔のニュース映像の音楽って、なんかオドロオドロシいですよね)。 ●死の覚悟が必要そうな通勤列車(

    『これ本当に日本?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1
  • 『生きていくの大変すぎ!』と驚愕する昭和30年代の日常まとめ2

    どうも、服部です。昭和30年代を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」や、その続編「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の頃は当に良い時代だったのか、当時のニュース映像で検証した前回記事「『これ当に日?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1」の続きです。 前回記事では、鉄道事情・道路事情・タクシーやトラックの運転マナー事情を見て、交通事情に関していえば、昭和30年代は良い時代ではなかったかもしれないと結びました。 今回の記事では昭和30年代の住宅事情、治安、衛生面について書きたいと思います。 ●【住宅事情】引っ越したいけど引っ越せない、超格差な住宅事情(昭和31年) 「大都会を空から眺めますと、立て込んだ家の間にアパートの集団住宅が目立つようになりました」というナレーションでニュース映像は始まります。田んぼや畑が広がっていて、現代に生きる者には、ちょっと大都会には思えませんが……。 団

    『生きていくの大変すぎ!』と驚愕する昭和30年代の日常まとめ2
  • NHK|ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ

    2014年、戦後から今に至るサブカルチャーの歴史を、劇作家宮沢章夫が、愛と独断で綴った「ニッポン戦後サブカルチャー史」。2015年、各界の錚々たる人物が、「女子高生」「ヘタウマ」「大阪万博とSF」などテーマ別に深掘りした「DIG 深掘り進化論」。 シーズン3となる今回は、戦後の日社会にとって大きな変化を経験した時代=1990年代に注目します。東西ドイツ統一、湾岸戦争など世界がドラスティックに変わり、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件などがあり、Windows95が発売されるなどネット世界が拡張した、あの時代…。 「失われた10年」とも形容される時代こそ、カルチャーシーンは大変革の時期だったのではないか?あの時、私たちの感覚、感性の何かが変わったのではないか?そんな仮説からはじまる物語。今回も、マンガ、アニメ、小説、お笑い、映画、演劇など、さまざまなジャンルを縦横無尽にリミックス。そしてもち

    NHK|ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ