承久の乱は後鳥羽上皇の惨敗に終わった。乱を主導した後鳥羽上皇と順徳上皇は配流、上皇方に加担した公家や武士には厳しい処断が待っていた。上皇方の所領は没収され、そこに地頭が新たに設置された。天皇は退位させられ、摂政の九条道家も罷免された。鎌倉幕府は北条義時の長子の北条泰時と義時の弟の北条時房を六波羅探題として京都に常駐させ、退位させられた九条廃帝(仲恭天皇と明治時代に追号)の替わりに出家していた行助入道親王(後鳥羽の兄)を治天として、行助の三男の茂仁王を即位させた。後堀河天皇である。 この結果、鎌倉幕府は皇位継承にも決定権を有することになり、鎌倉幕府の朝廷に対する優位が確定することになった。天皇の人事権を掌握したのは鎌倉幕府だったのである。朝廷は武装解除させられ、武力を全面的に六波羅探題に依存することになった朝廷は、もはや鎌倉幕府には逆らえなくなってしまっている。朝廷が幕府の意に沿わないことを