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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (42)

  • 近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条

    キリンのサイトには 古くは1483(文明15)年の『後法興院記』に、関白近衛家の人間が「チンタ」を飲んだという記述がある。このチンタが赤葡萄酒のことといわれている。 という記述がある。ワインと日人|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン 手元にある『後法興院記』文明15年をいくら読み返しても「チンタ」など出てこない。「チンタ」はポルトガル語由来らしいが、文明15年、1483年にポルトガル語が日に伝来している可能性はほぼないだろう。 サントリーも同様の内容を載せている。 この時代に書かれた公家日記「後法興院記」に、「珍蛇(チンタ)」というお酒を飲んだという記述があります。 この「珍蛇」は、スペインやポルトガルから伝わった赤ワインを指すと考えられています 日ワインの歴史|日ワイン サントリー 次にこんな記述が酒店のサイトにある。 かなり確かなのは文明15年(1483年)の『後法

    近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条
  • 開部但馬孫二郎=海部但馬守? - 我が九条

    さんにゃんさんの言いたいこと(http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20140318/1395107502#c1395911338)がわかった。 またまたヰ函40号文書。 http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=8698&p=2 ここの開部但馬孫二郎、私は『大日史料』と上島有氏の『京郊庄園村落の研究』の読みに従って関部と読んでいたが、その背景として「ひらきべ」はないやろ、と思っていたことがある。これは「かいふ」と読めるのではないか、「開部但馬孫二郎」は「海部但馬守」ではないのか、ということだと思う。 で、いかがでしょう?

    開部但馬孫二郎=海部但馬守? - 我が九条
  • ラッコの初出をめぐって - 我が九条

    ラッコがいつ日の史料に出てくるのか。一つの問題は「独◻︎(けものへんに干)」をどう判断するか、ということである。アザラシ説、北方の犬説、ラッコ説がある。アザラシ説は「独◻︎」が「水豹」と並べて記されており、しかも「水豹」に「アザラシ」と訓が振ってあることを考えれば成り立たず、また北方の犬もそれが貴重なものであるとは考えられないことから、若月義小氏はラッコと考える。ただそれをラッコと考える積極的な論拠もないところから、通説では「安藤陸奥守宛室町殿御内書」をラッコの確実な初出としているようである。 もし8~9世紀の「独◻︎」がラッコであるとすれば、当時ラッコの生息域に分布していたオホーツク文化の荷負集団から擦文文化の荷負集団を通じて入手していたのだろうと考えられる。ということは、オホーツク文化の変動、オホーツク文化と擦文文化との関係の変動、擦文文化と日との関係の変動のいずれかが起こればラッ

    ラッコの初出をめぐって - 我が九条
    nagaichi
    nagaichi 2014/03/14
    「独犴」か。「犴」の原義は監獄で使った番犬らしいですね。 http://baike.baidu.com/link?url=PpdyKtbEq2XwDDRc5sVAXtXC_R6Jxp84m9FRaNFqp6AAVwBOZo5SMOIie529gjoM
  • 室町時代におけるラッコ関係史料からわかること - 我が九条

    備忘録的に。 ラッコ関係史料が示すものは、永享年間の特異性であろうかと思う。足利義教による都鄙関係の再編は、大内盛見の死によって大きな転機を迎える。 北方関係で言えば、安藤康季の没落は、反足利義教勢力である斯波義惇と足利持氏による勝利であり、義教が彼らに一定譲歩せざるを得なかったのは、大内盛見の戦死が響いているであろう。九州関係には積極的な義教は、北方関係には消極的な対応を示し、逆に九州には不介入を主張する畠山満家は北方には積極的な介入を主張する。畠山満家と斯波義惇は永享五年に相次いで死去し、義教は新た都鄙関係を構想するようになる。その過程の中で若狭守護を近臣の武田信栄にすることに成功した義教は、北方社会への介入の手がかりを得たが、信栄は肝心の小浜の掌握に失敗し、一色氏と武田氏の対立の中、混迷を深めて行くのではないだろうか。 ラッコの皮の大量導入は、応永から永享という時期のものであり、特に

    室町時代におけるラッコ関係史料からわかること - 我が九条
    nagaichi
    nagaichi 2014/02/17
    http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52571/3/v.6-4_2%20rev%20ed.pdf 「獵虎」とか「海獺」とか「獺虎」とかの皮の交易からの中世政治史の話…で、いいのかな。中国史料では、「水獺」と書くことが多いっぽい。
  • 中世の北海道史と一次史料 - 我が九条

    歴史学においては一次史料を中心に書くのが基である。 とは言っても一次史料がほとんどない分野が存在する。中世の北海道史はその典型例だろう。いきおい編纂物である『新羅之記録』に頼ることになる。しかし残念ながら『新羅之記録』の信憑性は非常によくない、と近年の研究では指摘されている。しかし『新羅之記録』は一種の麻薬みたいなもので、使い出すと止まらないのだろうな、と思っている。その典型例として私はこの五年ほどやり玉に挙げているのが「下国安藤氏十三湊還住説」である。 『満済准后日記』に永享四年に下国安藤氏が没落した、と書いてあり、『新羅之記録』には嘉吉二年に没落した、と書いてある。この両者は年代以外はそれほど齟齬がない。双方とも基的な出来事は南部氏と下国安藤氏が争って、下国安藤氏が敗北し、北海道に逃亡した、ということである。これだけを見れば、一次史料である『満済准后日記』と編纂物である『新羅之記録

    中世の北海道史と一次史料 - 我が九条
  • これはひどいウィキペディア「室町時代」 - 我が九条

    今回取り上げるのは「室町時代」の項目。今回は琉球との関係を取り上げたい。問題の箇所はここ。 1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、1441年には足利義教が琉球を薩摩国の島津氏の属国とする事を認めており、さらに幕府には琉球奉行が設置されて貿易の統制を行おうとしており、室町時代には琉球が「日」として認識されていた。 2004年8月にアップデートされたもの。「室町時代には琉球が「日」として認識」という記述は、私は同意しないが、そういう学説もあるのでさておく。というよりもその方が通説だろう。問題は足利義教の嘉吉附庸説を事実と解釈しているところ。それならば源為朝の琉球伝説も史実として書いて欲しいw 琉球奉行の設置と貿易の統制も「琉球が「日」として認識されていた」こととどう関係あるのか、不明。室町幕府における「奉行」の意味合いをもう少し考えた方がいい。あと『蔭

    これはひどいウィキペディア「室町時代」 - 我が九条
  • 「王女の男」をアジア史のパースペクティブに位置づけてみる - 我が九条

    今みたい韓流ドラマ「王女の男」(多分見ない)。その舞台は「癸酉靖難」。1453年に朝鮮王朝で起きた王位簒奪事件である。 朝鮮王朝の最盛期を作り上げた世宗大王を継承したのが文宗だが、彼は病弱だった。彼が36歳で死去すると、王位は世嗣で11歳の弘暐が継承したが、文宗の弟の首陽大君が簒奪したのが「癸酉靖難」である。物語自体は文宗の重臣の金瑞宗(キム・ジョンソ)の子の金承琉(キム・スンユ)と、首陽大君の娘の李世伶(イ・セリョン)のラブストーリーを中心とした話なのだが、そこに申叔舟(シン・スクチュ)の子のシン・ミョンが金承琉の親友として登場する。 で、申叔舟だが、彼が書状官として来日したのが1443年のことである。申叔舟が来日したときの通信使の役割は、嘉吉の乱で落命した足利義教の致祭と、新将軍となった足利義勝の慶賀の使者である。しかし義勝は通信使と会見した一ヶ月後に死去し、弟の足利義政が襲位すること

    「王女の男」をアジア史のパースペクティブに位置づけてみる - 我が九条
  • 「室町幕府はなかった」 - 我が九条

    1336年、足利直義らは建武式目を制定し、新たな武家政権の発足を宣言した。1338年には足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた。尊氏は後醍醐天皇への対策から京都に武家政権を樹立する事が不可避であった。尊氏は二条万里小路に屋敷を構え、足利直義は三条坊門に屋敷を構えた。足利義詮は三条坊門万里小路に屋敷を構え、足利義満にいたってはじめて北小路室町に屋敷を構える事になる。後に義満は室町第を足利義持に譲って自らは北山殿を構え、そこを政庁とする。義持は父の死後三条坊門に屋敷を構え、足利義量は室町第に入るが、ほどなく死去する。足利義教・足利義勝は室町第に、足利義政は当初は怨霊を恐れて養育されていた烏丸資任の高倉第にいたが、長ずるに従い、室町第に移り、晩年は東山殿で過ごした。義稙は三条坊門に始まり、放生津、一乗谷、山口と動き、京都に戻った後に堺から阿波国撫養で死去している。足利義澄は京都時代どこにいたかはしかと

    「室町幕府はなかった」 - 我が九条
    nagaichi
    nagaichi 2012/03/02
    まさかのシリーズ化!
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

    鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条
    nagaichi
    nagaichi 2012/02/27
    中国の「幕府」は『史記』建元以来侯者年表第八 に「大將軍幕府」が出てくるあたりからかな。
  • 南部義政と下国盛季の霊界大合戦 - 我が九条

    嘉吉三年(一四四三年)、通説によると南部義政の攻撃によって下国盛季が十三湊から没落したという。 「南部家系図」を見てみた。 義政 初行政 庄司 大膳大夫 遠江守 母は信光が女。 永享十一年普広院義教、足利持氏を追伐のとき、大手口をやぶりしにより、感状及び諱の字をあたへられ義政と称す。このとき又黒母衣をゆるさる。十二年七月十二日卒す。旭山東公と号す。高雲院に葬る。 あの、嘉吉三年にはすでにお亡くなりですが・・・ 「秋田家系図」を見てみる。 盛季 下国(シモクニ)安東太郎 母ハ奥州ノ国司北畠ノ源中納言顕家卿ノ女 応永二十一年二月卒、法名南嶺瑞策 盛季も嘉吉三年にはお亡くなりになって二十年を超えています・・・ 『新羅之記録』には次のようにある。 同(永享)十二年娶十三之湊之盛季朝臣之息女而後、義政従糠部行十三之湊、対面舅盛季、還途中而津軽者為増聞善所矣度々云 死後二十年の死人と死後三年の死人同士

    南部義政と下国盛季の霊界大合戦 - 我が九条
    nagaichi
    nagaichi 2011/11/18
    バロスw
  • 現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条

    「現代の価値観を過去に持ち込むな」という議論がある。私は思う。そんなに悪いことか?と。 私は郷和人氏の次の指摘に全面的に従いたい。 次に、政治や権力を通じて歴史的人間を考えようとすると、史料を読むにあたり何に依拠すべきなのかについて、実は確たる定めがない。 a、中世人も現代人も、同じように思考し、希求し、行動するだろう。たとえば無駄に死ぬのは好ましくないし、できれば豊かに、せめて安楽に日々を送りたいだろう。この意味で、今を生きる私たちの感覚を基準に、中世の事象を解釈することは有効である。 b、いや、そうはいっても中世人と現代人はやはり異なるのだ。両者の感覚が同一であることを前提として安易に議論を進めると、時として思わぬ陥穽にはまりこむ。罪と罰の意識が相当に相違することは研究者のあいだでは共通の認識になっているし、「所有」の概念が未成熟だから、職の体系ができるのである。 aもbも決して間違

    現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条
  • 史料論 - 我が九条

    Aという史料がある。Bという史料がある。これらの史料は書かれていることが矛盾する。この場合、AかBかどちらかの史料は信用できない。どちらを信用すべきか、という問題が出てくるわけだ。一番信用できるのが古文書である。そして古記録となる。編纂物は史料としては信用性が低いとされる。後世の著述になれば、信用性はもっと下落する。 何が書きたいか、というと、津軽安藤氏の出自についてである。津軽安藤氏が得宗御内人であったことはほぼ史料上動かないとみてよい。これは当時の文書史料でほぼ確かめられる。津軽安藤氏の内訌を管理しているのが得宗公文所だからである。あるいは得宗領の地頭代官職を世襲していたことも、譲状から明らかである。で、現在の通説では津軽安藤氏は土着の豪族を得宗が登用した、ということになっている。系図には長随彦や安倍氏を先祖とする、とある。しかしこれらの系図はいずれも室町時代から江戸時代に編纂されたも

    史料論 - 我が九条
  • これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条

    ウィキペディアは非常に便利な反面、稀に嘘が紛れ込んでいる。何も知らない人が、自分を物知りと勘違いして自分の思いこみを書き込むからである。近衛基平のところでは岩波書店の社長の安江良介氏を『深心院関白記』の解説執筆者と勘違いするほど業界関係に無知な人(喩えれば阪神タイガースの四番を坂井オーナーと勘違いしているレベル)が恥ずかしげもなく書き込んでいるわけで、今回のもかなりひどいレベル。 関係部分を引用。 1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事にな

    これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条
    nagaichi
    nagaichi 2010/08/30
    某中国史界隈でも漫画とか小説とか2ちゃんねるとかをソースにWikipedia記事書いてた人いましたしね。
  • 永福寺の建立事情 - 我が九条

    永福寺の建立事情について、修理の時に北条時頼が述べている。 当寺者、右大将軍、文治五年討取伊予守義顕、又入奥州征伐藤原泰衡、令皈鎌倉給之後、陸奥出羽両国可令知行之由、被蒙勅裁。是依為泰衡管領跡也。而今廻関長東久遠慮給之余、欲宥怨霊。云義顕云泰衡、非指朝敵、只私宿意誅亡之故也。仍其年内被始営作。(『吾鏡』宝治二年二月五日条) 「怨霊を宥めんと欲す」というのは『吾鏡』文治五年十二月九日条では「且宥数万之怨霊」とある。「数万の怨霊」とは言うまでもなく源頼朝のために死に追いやられた人々のことであるが、文治五年十二月というのが、奥州征伐の後のことである。奥州征伐は頼朝にとっては自身の政権の確立のための総仕上げであった。そのために頼義故実(前九年の役での源頼義の行動)を再現し、自身が関東の「王」であることを内外に宣言する行事だったのである。その戦いは即ち治承の自身の挙兵以来の戦いの総仕上げであった

    永福寺の建立事情 - 我が九条
  • 承久の乱の影響 - 我が九条

    承久の乱は後鳥羽上皇の惨敗に終わった。乱を主導した後鳥羽上皇と順徳上皇は配流、上皇方に加担した公家や武士には厳しい処断が待っていた。上皇方の所領は没収され、そこに地頭が新たに設置された。天皇は退位させられ、摂政の九条道家も罷免された。鎌倉幕府は北条義時の長子の北条泰時と義時の弟の北条時房を六波羅探題として京都に常駐させ、退位させられた九条廃帝(仲恭天皇と明治時代に追号)の替わりに出家していた行助入道親王(後鳥羽の兄)を治天として、行助の三男の茂仁王を即位させた。後堀河天皇である。 この結果、鎌倉幕府は皇位継承にも決定権を有することになり、鎌倉幕府の朝廷に対する優位が確定することになった。天皇の人事権を掌握したのは鎌倉幕府だったのである。朝廷は武装解除させられ、武力を全面的に六波羅探題に依存することになった朝廷は、もはや鎌倉幕府には逆らえなくなってしまっている。朝廷が幕府の意に沿わないことを

    承久の乱の影響 - 我が九条
  • 「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条

    平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。 鎌倉幕府成立年代論争とは、鎌倉幕府とは何か、という問題である。一応述べておく。 1180年、頼朝が鎌倉に邸を構えた。これは鎌倉幕府が南関東の軍事政権であることに着目する見解。 1183年、頼朝が寿永2年の宣旨を受けた。これは鎌倉幕府は、その実力支配を朝廷から公認されることに着目する見解。 1184年、頼朝は公文所と問注所を設置した。これは鎌倉幕府が行政機関として機能し始めたことに着目する見解。 1185年、頼朝が守護・地頭設置を認められた。これは頼朝の主従制が朝廷に公認されたことに着目する見解。 1189年、頼朝が奥州征伐を行なう。これは頼朝が全国的な軍事動員権を掌握し

    「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条
  • 荘園制論を理解するために - 我が九条

    黒田俊雄の学問的体系がマルクス主義に立脚しているという、自明の前提を再確認してきた。弁証法的唯物論に即して黒田の論を整理すると、下部構造としての荘園制論、上部構造としての権門体制論、そして社会的意識諸形態としての顕密体制論がある。 マルクスは相互の関係について次のように説明する。 人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定す

    荘園制論を理解するために - 我が九条
  • 顕密体制論理解のために - 我が九条

    中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。 仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため? 非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依

    顕密体制論理解のために - 我が九条
  • 権門体制論理解のために - 我が九条

    中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。 これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。 権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。 ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価している

    権門体制論理解のために - 我が九条
  • 古文書からみた日琉関係 - 我が九条

    少し古文書に関わる問題。 日国王と琉球国王の間の外交文書のやり取り。まずは日国王から琉球国王へ。 御文くハしく見申候、しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ 応永廿一年十一月廿五日 りうきう国のよのぬしへ(朱印) 言うまでもないが、「日国王」とは室町殿のこと。応永21(1414)年の室町殿は足利義持。さらに言えば「室町殿」と「室町幕府の将軍」とは必ずしも一致しない。足利義満は将軍の座を義持に譲り、出家してからも、さまざまな政務を行っていたし、義持も義量に譲ってからも政務を見ていた。室町幕府は基的に足利家の家政機関の発展系とみなせる。室町殿とは足利家の家督者である。 この文書は一般に御内書と呼ばれるが、厳密に言えば年号が記されている点をはじめ、御内書とカテゴライズするには問題が多い。そこで御内書を挙げておこう。 馬二十匹、鳥五千羽、鵞眼二万匹、海虎皮三十枚、昆布五百把到来了。神妙候。太刀

    古文書からみた日琉関係 - 我が九条