奈良県橿原市教委が2012年12月12日、飛鳥時代の女帝・推古天皇(五五四〜六二八)と息子の竹田皇子の合同墓(の可能性が高い)植山古墳について発表しました。 横穴式石室の入り口を大量の土で「封印」したことが分かりました。 古墳時代の後半から流行する「洞窟状」の横穴式石室の入り口は、普通は石でふさぎます。石室は再利用が前提のエコシステムなので、石をどければまた使えるからです。 ところが、植山古墳の入り口は、土でびっちりとふさいでしまっていたわけです。 それには考えられる理由があります。 最大の理由は、「偉大な天皇の墓を再利用してはならない」という国家的な意識でしょう。 実は植山古墳には、推古女帝のなきがらはありません。 盗掘されたからではなく、別の場所に改葬したからです。 つまり推古の墓は、1番目(植山古墳)ー>2番目(大阪府太子町)と移動しているのです。 推古天皇というと、おいの聖徳太子を