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昭和に関するnamgenのブックマーク (21)

  • 約束のない再会の雨が降る

    母がいっしょにべようといって鯛の刺身を冷蔵庫から取り出す。きっとスーパーでこの刺身を見たときに、わたしにべさせようと思って手をのばしたのだろう、自分がべたいのではなく、と思った。ほんとうは自分がべたいだけで、それをだれかにべさせたいという口実で買ったといった人間的な解釈がほしかったのに、ここには動物的な、子どもに餌を与えるといった純粋なメカニズムに近いものが機能しただけだった。いざべ始めると(案の定)母は、自分は一切れでいいと言い出す。わたしは満腹だったのである。 ここ二日ほど母の作った赤飯をべている。母はむかしから赤飯が好きだったのではないかと突然気づく。むかしというのは、もしかしたら子供の頃からということで、子供の頃から変わらずに持ち続けるものはひとつの奇蹟というほかなく、そこには奇蹟的な出会いがあったからにほかならない。たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと

    namgen
    namgen 2011/02/04
    『たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと、時代の哀しさに行き着く。』
  • 記憶の彼方へ020:未生の記憶のアンソロジー - 記憶の彼方へ

    私が生まれる前に撮られた、私の知らない彼と彼女の写真を見ていると、不思議な気持ちになる。写真の外側の世界ではその後彼と彼女は私の父親と母親になり、しばらく前に亡くなった。死によって、彼らは写真のなかの私の知らない彼と彼女に還って行った。そして写真のなかでは私の知らない時間が今も流れていて、その気になれば私もアリスのようにそこに入っていける。そんな錯覚が現実味を帯びることがある。 関連エントリー 記憶の彼方へ001:私の知らない祖父母(2008年02月27日) 記憶の彼方へ002:私の知らない父と私(2008年09月17日) 記憶の彼方へ003:幼い兄弟(2008年12月02日 ) 記憶の彼方へ004:父母の遺影(2008年12月27日) 記憶の彼方へ005:あやめヶ原の祖母(2008年12月28日) 記憶の彼方へ006:私の知らない私(2009年12月07日) 記憶の彼方へ007:私の知ら

    記憶の彼方へ020:未生の記憶のアンソロジー - 記憶の彼方へ
  • 赤いペチュニア - 記憶の彼方へ

    二人はまるで別世界から忽然と私の前に現われて、そしてまたそこに消えて行くかのようだ。今朝もまた二人を見かけた。三度目だ。サフラン公園の東屋の日陰で二人は静かに休んでいた。買い物帰りのようだった。私は異常な暑さを話題にしたが、二人にはそれほど暑く感じられていないようだった。二人はなぜか涼しげに見えた。風が吹いてきたわ。だが、私には風は感じられなかった。彼女は写真のお礼を重ねて言った。居間に飾ってあるのよ。いい記念になったわ。それにしても不思議な縁ねえ。私、新京にいたのよ。新京はご存知? 今の長春ですね。そう、そう。21歳までいたの。14歳のときから。父が政府高官で派遣されたの。大きな家だったわ。将校たちが大勢出入りしていたわ。彼女は牡丹江高等女学校を卒業した。「サザエ品」の会長である野村とみさんと同級生だった。室蘭に引き揚げ後は、丸井今井に勤めた。私が室蘭に生まれ育ったことも彼女にとっては

    赤いペチュニア - 記憶の彼方へ
  • 記録させる記憶:宮本常一の「記憶」と「記録」 - 記憶の彼方へ

    『宮常一が撮った昭和の情景』上巻、170頁、asin:4620606391 これは宮常一が昭和37(1962)年夏、山口県萩市見島の宇津で撮影したもの。「漁網の上でうたた寝をする男の子。海の子はこうして育つ」というキャプションが添えられている。見島とは山口県の日海側にある絶海の孤島。宇津は古くから北前船の寄港地として知られている漁港。地図ではここ。 大きな地図で見る この写真を「微笑ましく」感じたという佐野眞一は、宮常一が調査に入ってから40年後の2000年の冬に宮が撮影した人物を探しあてることをひとつの目的に見島に渡った。そしていい親父になった「海の子」にいわば再会する。 宮常一が見た日 (ちくま文庫) 作者: 佐野眞一出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2010/05/10メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 20回この商品を含むブログ (9件) を見る 佐野眞一『

    記録させる記憶:宮本常一の「記憶」と「記録」 - 記憶の彼方へ
  • 大連今昔 - 記憶の彼方へ

    大連空港内の書店で買った植民地時代の大連と旅順の写真25枚を使った絵葉書集「大連舊影」(人民美術出版社)。このなかに、いわゆる大連中山広場近代建築群の代表的な五つの建築物の写真が含まれている。同じ建築物を先日私が撮影した写真と比べてみる。 大広場。向こう正面は横浜正金銀行大連支店。 [ 旧大広場(現中山広場)。向こう正面に小さく写っているのが旧横浜正金銀行大連支店(現中国銀行遼寧省分行)。 横浜正金銀行大連支店(1909年、木頼黄、太田毅設計) 左に写っているのが旧横浜正金銀行大連支店(現中国銀行遼寧省分行) 大連ヤマトホテル(1914年、太田毅設計) 旧大連ヤマトホテル(現ホテル大連賓館) 大連市役所(1919年、松室重光設計) 旧大連市役所(現中国工商銀行大連市分行) 大連警察署(1908年、前田松韻設計) 旧大連警察署(現遼寧省対外貿易経済合作庁)

    大連今昔 - 記憶の彼方へ
  • [書評]ゲゲゲの女房(武良布枝): 極東ブログ

    朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」は毎日見ている。毎日、面白いなと思っている。原作のこのは書店で見かけ、ぱらぱらと捲ってこれも面白そうだなと思って購入したものの、若干積ん読状態だった。それほど読書に時間のかかるでもないだろうから息抜きの読書にとっておこうと思っていた。それで忘れかけていた。 昨日朝、子豚がアイドルになってるNHKのバラエティ番組で、水木夫がテーマになっていて、そういえばと思い出し、読み出した。余談だが、この番組に柳沢秀夫解説員が出ている。私は世界の見方が彼とは随分違うこともあり、なんか嫌なタイプの人だなと思っていたが、この番組で話を聞いていて好感に変わりつつある。ハムは得点が高いぞ。 「ゲゲゲの女房」は面白いだった。でも、どう面白いのかというのがうまく言葉になってこない。ゲゲゲの鬼太郎の著者水木しげるについて、その奥さんの立場から描いている、とは言える。そして、彼は天才とし

  • W-Furuhon

  • イシタキ・ファイル 阿片王・里見甫の生涯をめぐるメモ(1)

    佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』(2005年7月、新潮社)が出た時、私の周辺で話題になった。 阿片王とは福岡県立中学修猷館の出身で、上海の東亜同文書院へと進み、中国大陸で阿片を扱って巨万の富を稼ぎ出したとされる里見甫(はじめ)のことである。 玄洋社の研究で里見の名を目にすることはない。しかし、中学修猷館の出身だというだけでも、玄洋社の周辺に位置していたことは間違いない。大正二年に孫文が福岡を訪れたとき、里見は孫文の前で柔道を披露したという。孫文は中華民国が成立した翌年、辛亥革命支援への感謝をこめて玄洋社を訪問したのだ。この時、孫文が修猷館をも訪問したのかどうか、が史実としては問題になる。私の周辺で話題になったというのはそのことである。 里見については、西木正明の小説『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』(2001年7月)があることを知ったので、まず『其の逝く処を知らず』を先に手

  • 二・二六事件の凶行を映した鏡 - ニュース・ワーカー2

    74年前の1936(昭和11)年のきょう2月26日、日でクーデター未遂事件「二・二六事件」が起きました。東京に駐屯する陸軍部隊の一部が、大尉など尉官クラスの一部将校の指揮で当時の岡田啓介首相らを襲撃し、斎藤実内大臣や高橋是清大蔵大臣らを殺害しました。3日後に反乱軍部隊は投降し、陸軍同士が戦闘する事態は避けられました。一部の軍人が武力によって社会変革を起こそうとした事件として現代史に記録されています。 ※ウイキペディア「二・二六事件」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 その二・二六事件で殺害された一人に、当時内大臣だった斎藤実がいます。元海軍大将で、五・一五事件(1932年)で犬養健犬養毅首相が殺害された後に首相を務めました。二・二六事件当時は内大臣として天

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  • [書評]世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子): 極東ブログ

    「世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)」(参照)は書名通り、満洲帝国を世界史に位置づけようとした試みのだが、その試みが成功しているか妥当な評価は難しい。いわゆる左翼的な史学からすれば書は、珍妙な古代史論と偽満州へのトンデモとされかねないところがある。史学学会的には概ね無視ということになるだろうが、おそらく日には書をカバーできる史学者は存在していないのではないかと私は思う。 一般読書人にとって新書としての書はどうかというと、率直に言えば、有無を言わず買って書棚に置いておけ絶対に役立つとは言える。各種の事典的情報がコンサイスにまとまっているので便利だ。ブログに書評を書いてブックオフへGO!というではない。ただ、読みやすさと読みづらさが入り交じる奇妙な読書体験を強いられるかもしれない。 言うまでもなくと言いたいところだが、宮脇淳子は岡田英弘のであり、その史学の後継者である。岡田英弘

  • [書評]日中戦争はドイツが仕組んだ 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ(阿羅健一): 極東ブログ

    先日、日中双方10名ほどの有識者による歴史共同研究の報告書が公開されニュースになった。大手紙の社説などでも言及されていた。共同研究は2006年10月安倍晋三首相(当時)が訪中に際し、胡錦濤国家主席との会談で合意されたものだ。近代史については中国側の都合で非公開となったとのことだが、読める部分はどんなものだっただろうかと思っていたら、外務省で電子文書で公開されていた(参照)。 中国側の見解もまとめられていたが私は中国語が読めないのでわからない。この部分も翻訳・合し、政府補助で安価に販売されたらよいのではないかと思った。新聞などの報道では、暴発ということでほぼ定説化しつつある盧溝橋事件について中国側でも「発生は偶然性をもっているかもしれない」との理解が示されたといった点に着目していたが、他も全体にバランス良く書かれていて、存外にというのもなんだが、よいできだったことに驚いた。なお、盧溝橋事件

  • 近代史とじいさん - 武蔵野人文資源研究所日報annex

    アジア歴史史料センター(http://www.jacar.go.jp)がとんでもなく面白い。 国立公文書館にある『太政類典』『公文録』や防衛庁防衛研修所にある『陸軍省大日記』等を、目録検索できるだけでなく、自宅から読むことができるのである。凄いプロジェクトである。 要するに「図書館の禁帯出の貴重資料→閲覧には身分証明書要、万年筆使用不可、コピー不可」が、司書のおばさんのうさんくさげな視線を経ずとも、自宅で読めるというわけだ。設立の経緯を読むとわかるが、村山富市首相、在任中唯一の輝かしい業績ではないでしょうか。 で、ぼんやりと『軍事機密大日記目録』を見ていて、ふと思いつき、亡くなった大叔父の名前で全文検索してみた。 彼は陸軍軍人だったようだが、私の知る限りただの田舎の蜜柑農家のじいさんであった。戦時のことは復員後親族のだれにも一切語ることはなかったらしいが、そのことと彼が一時B、C級戦犯とし

    近代史とじいさん - 武蔵野人文資源研究所日報annex
  • 記憶の彼方へ009:私の知らない母と私 - 記憶の彼方へ

    畳、漆喰の壁、襖障子。何ストーブだろうか。燃料は薪ではなさそうだ。石炭だろうか、コークスだろうか。私は昭和32年8月21日に生まれた。写真は半世紀あまり前、昭和32年(1957)の冬に撮影されたものらしい。今、不思議を感じる。見れば見るほど分からなくなる。今までは不思議とは感じなかった。単純なことだと思っていた。半世紀前の、ありのままの事実が写っているだけだ。半世紀前には、お前は赤ん坊で、お前の母親はお前の知らない若い女だった。それだけのこと。でも、今は、不思議を感じる。いや、衝撃さえ覚えている。写真を見ることのどこかに亀裂が走った。私自身や母にこんな時があったのかという驚きではない。今の私の娘たちと変わらない年齢の「若い母」と「赤ん坊の私」が写った写真をどう見ればいいのか分からなくなる。私はその時のことを何も覚えていない。体に回された若い女の右腕、両膝を支える左腕、声や吐息、背中に触れて

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  • 小島一郎と渋沢敬三 - 記憶の彼方へ

    『小島一郎写真集成』(インスクリプト、2009年、asin:4900997234)の巻末には、高橋しげみ氏の「北を撮る------小島一郎論」と題した長い論考が収録されるとともに、小島一郎の生前唯一の写真集『津軽』に掲載された小島自身による「私の撮影行」と題した短文が転載されている。両者について簡単にメモしておきたい。 「北を撮る------小島一郎論」は、小島一郎の人生と写真に対する「なぜ」という根的な問いかけに発し、彼の写真を見る現代のわれわれのまなざしの行方を見定めようとする労作である。その中の或るエピソードに驚いた。小島一郎は死ぬ数年前に、こちらもすでに病床に臥していた渋沢敬三に出会っていたのである。そうか!と思った。以前書いたように(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090325/p2)、敬三は父の篤二の写真集『瞬間の累積』(慶友社、1963

    小島一郎と渋沢敬三 - 記憶の彼方へ
  • 砂漠 - 記憶の彼方へ

    砂漠 今年初めに復刊されたル・クレジオの『砂漠』を買った。砂漠に惹かれる。どうしてだろう。映画『アラビアのロレンス』のなかで、ロレンスが砂漠に惹かれる理由をたしか「清潔だから」と答えていたことを思い出す。そして、たしか砂漠は陸の海であると言った人がいた。人間の営み、生命を拒絶するかに見える砂漠こそが実は生命を、精神を深く耕す場所であるというような考え方だったような気がする。分かるような分からないような考え方だが、惹かれる。アメリカで果てしなく続くように思われた乾燥地帯を走り続けたとき、自分の小ささを痛感した時の解放感と悲哀の入り混じったような感情のことも思い出す。「私は言葉によって見る」というル・クレジオが砂漠に見たものを味わいたい。 旅する巨人―宮常一と渋沢敬三 (文春文庫) 佐野眞一『旅する巨人 宮常一と渋沢敬三』(文芸春秋、1996年)が文春文庫で読めるようになった。2009年1

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  • http://www.news.janjan.jp/world/0909/0909029660/1.php

  • 戦争体験 - 歎異抄聴聞記−師の口伝の真信に異なるを歎く

    永代祠堂経法話ご満座。前にアップした、法話の原稿の一部は使われることがなかったが、大変貴重な場となった。 テレビを観ていると、「いい言葉・感動すること」をしきりに求めている気がしてなりません。たくさんの情報量のなか、「一喜一憂」という言葉があるけれど、民放は一喜一喜一喜一憂くらいの割合で、「刹那的な」(その時だけの)一度感激したらすぐ忘れるような、「一喜」を積み重ねている。積み上げたが崩れるように、いつか倒れるでしょうね。 NHKがいいとは言いませんが、民放のげらげら笑っているのの多いのに疲れることがあります。こどもの頃、おばあちゃんは玄関の横の三畳部屋の自分の部屋で時代劇を観て、じいちゃんと妹と一緒にいつもテレビを観ていて、たいがい、じいちゃんは国会や相撲やらニュースやらのNHKを観ていました。この前ふと、自分がじいちゃんみたいだなぁと、思いました。話がどうでもいいところへ行ってしまい

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  • 47NEWS(よんななニュース)

    台風7号…さいたま市、避難所を開設へ 土砂災害警戒区域の4区9カ所で午前9時から 西区、見沼区、緑区、岩槻区の学校など

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  • Ерак Көнчыгыгыштагы татар-башкортлага ни булды - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ

    НадирДәүәт, Ерак Көнчыгыгыштагы татар-башкортлага ни булды, Kazan 2005, 99c. (Nadir Devlet, Yırak Könçıgıştagı Tatar-Başkortlarga ni buldı, Kazan 2005, 99p) <タタール語,400部出版> トルコの研究者で自らも奉天(現瀋陽)生まれのタタール人であるNadir Devlet教授が『極東でタタール・バシュコルト人たちに何があったか』という題名で極東のタタール人コミュニティーの歴史について,タタール語で出版している。99頁とコンパクトではあるが,満洲や日移住したタタール人を知る上で参考になる。掲載されている写真は個人蔵のもので未発表のものばかりである。タタール人経営の小田原の洋服店の写真など珍しいものも掲載されている。 Nadir Dev

    Ерак Көнчыгыгыштагы татар-башкортлага ни булды - 亜細亜通報〜ユーラシア大陸のトルコ系諸民族と日本のあれこれ
  • そういえば満点パパ 減点パパでした - finalventの日記

    もう昔ということになるが、お笑いオンステージで三波伸介が満点パパというのをやっていた。 ウィキペディアを見ると、1972年4月8日から1982年4月4日まで放送とある。10年やっていたのかと思う。というか、私の思春期から青春期をカバーしていた。 先日、ドライブしていて、ふと、あのパパたちは今の私どころの年齢ではないぞ、若いぞと思った。子どもたちは10歳ほどではないか。当時は25歳くらいには結婚しているから、パパたちは30代半ばではないか。 そういえば三波は早世だったな、いくつかと調べて、52歳であると気がついた。「びっくりしたなあ、もう!」 泣けるな。死因は解離性大動脈瘤破裂だったともある。無茶な芸がたたったことはたしかだ。早野凡平も50歳で癌なくなったが、やはり芸がたたったという印象がある。 今思うと、命を削るような芸だったし、あのなかに大衆というものがあった。大衆がその意識を芸人に顕す

    そういえば満点パパ 減点パパでした - finalventの日記