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波照間に関するnatsumintosのブックマーク (4)

  • 戦争マラリア - Wikipedia

    マラリア原虫の電子顕微鏡写真 戦争マラリア(せんそうマラリア)は、第二次世界大戦時の沖縄県で、有病地に強制疎開させられた一般住民や、駐留した日軍の軍人・軍属等が罹患したマラリアである。戦争という状況の下で発生したマラリアであるため、平時のマラリアと区別して戦争マラリアと呼ばれる[1]。 沖縄県の八重山列島では「八重山熱」と呼ばれたマラリア発生地域が各地に存在することが古くから知られ[2]、琉球王国時代からその地域に年貢増収を見込んでの開墾を意図した強制移住が行われては全滅する、という歴史が繰り返されていた。特に石垣島の北側(裏石垣)と西表島はその意味で恐れられた地域である。現在ではマラリアは一掃されているが、第二次世界大戦時にはまだ発生地域は多かった[注 1]。 第二次世界大戦時、沖縄島周辺では激しい戦闘が行われた。八重山諸島においては米軍の上陸こそ無かったものの、空襲や艦砲射撃による

    戦争マラリア - Wikipedia
  • 忘勿石(わすれないし)【波照間戦争マラリア1】

    昨日の沖縄タイムス朝刊で、民宿たましろの玉城功一さんが波照間の戦争マラリアについて語られています。 連載記事「教科書改ざん ただす」で、「軍命」による悲劇の実体験者として話されておられます。 沖縄タイムスのホームページにも掲載されていました。 http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_tadasu17.html ******** ●西表島の忘勿石と波照間の戦争マラリア 西表・南風見の浜にある碑 風化しかかっている「忘勿石」 「忘勿石」のあるあたり 写真はいずれも2004年10月 62年前の今ごろ、土は終戦で戦争状態から解放され、復興に進みつつあった。だが、沖縄や大陸、南洋の日人にとっては過酷な状態が続いていた。沖縄では9月になっても残置日兵の襲撃など戦闘状態があり、県民が入れられた収容所では過酷な状況があった。離

    忘勿石(わすれないし)【波照間戦争マラリア1】
  • 終わらない戦争―強制疎開マラリア事件・補償問題から歴史改竄までの経過―

    太平洋戦争末期の沖縄戦では日国内唯一の地上戦が展開され、県民の4人に1人が犠牲になるという大惨事となったのは周知の事実である。しかしその中で、地上戦がなく空襲の被害も比較的少なかった八重山の戦争の実態は見過ごされがちである。 八重山では、軍による命令で、住民のマラリア汚染地への強制疎開が行われ、2万人以上の罹患者と、4000人近く(人口の11%)の犠牲者を出した。その中で特に波照間島は、全島民が西表南風見に強制疎開、その結果、疎開中もさることながら戦後、帰島後にマラリアが猖獗を極め、島民の98%が罹患し、3人に1人が犠牲となるという悲劇的状況となった。 戦後40年以上を経てようやく八重山の遺族が補償を求めて立ち上った。国の厚い壁に阻まれ補償は認められず妥協的な結果とはなったものの、マラリア被害を後世に伝えるための祈念館建設などがどうにかして認められた。 しかし、昨99年、祈念館では開館早

  • Wind from The NIRAI・KANAI

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