幕末の会津藩に生まれ、会津戦争では鶴ヶ城の籠城戦に参加した山川咲子。岩倉具視の欧米使節団に随行し、日本初の女子留学生として足かけ12年間をアメリカで過ごします。渡米にあたり、名前を山川捨松と変え、帰国後、薩摩出身の軍人・大山巌の妻となり、大山捨松となります。社交界ではアメリカ仕込みのマナーとホステスぶりで「鹿鳴館の花」と呼ばれます。捨松の曾孫である久野明子さんが、アメリカに残されていた捨松の手紙を中心に、曾祖母の生涯をたどった伝記『鹿鳴館の貴婦人、大山捨松-日本初の女子留学生』から、大山捨松の生涯を追ってみたいと思います。 幼年時代 捨松は幼名を「咲子」といい、会津藩家老・山川家の末娘として生まれました。鶴ヶ城に立て籠もった際、(数えで)8歳でしたが、籠城戦に参加し、蔵から鉛の玉を運びだし、弾薬筒につめられたものを他の蔵へ運び込むなどして活躍します。会津藩の降伏後、山川家は、再興を許された