2023年2月21日、国内外のレスラーに多大な影響を与えてきた武藤敬司(60歳)が東京ドームでの内藤哲也との試合を最後に引退する。1980年代後半から90年代にかけて「闘魂三銃士」としてスター街道をともに歩んだ蝶野正洋は1つ歳上の”同期”であり”ライバル”である武藤引退に何を思うのか――。NumberWebのインタビューで武藤敬司とのデビュー当時の思い出や闘魂三銃士結成の頃のエピソードを明かした。<全2回の1回目/後編へ>
2023年2月21日、国内外のレスラーに多大な影響を与えてきた武藤敬司(60歳)が東京ドームでの内藤哲也との試合を最後に引退する。1980年代後半から90年代にかけて「闘魂三銃士」としてスター街道をともに歩んだ蝶野正洋は1つ歳上の”同期”であり”ライバル”である武藤引退に何を思うのか――。NumberWebのインタビューで武藤敬司とのデビュー当時の思い出や闘魂三銃士結成の頃のエピソードを明かした。<全2回の1回目/後編へ>
格闘技 プロレス 「ムタと武藤を同時に撮りたい」カメラマンの無茶ぶりにグレート・ムタはどう答えた? 34年の歴史に幕、“悪の化身”が魅力的だった理由
テレビ番組『ビ―トたけしのスポーツ大将』で100m10秒89を記録するなどアスリート顔負けの身体能力を発揮し、お茶の間を沸かせてきた井手らっきょ。井手に「プロ入りを目指した球児時代」と「芸能界に入り、ビートたけしと草野球をするまで」の話を聞いた。(全3回の第1回/続きは#2、#3へ) 長嶋茂雄さんが大好きだった ――野球歴について聞かせてください。 井手らっきょ(以下、井手) 小さい頃から運動神経に自信はあって、幼稚園の頃から親父とキャッチボールをしていました。その頃から足が速くて、1等賞ばっかりだったんです。小学校に入っても足が速かったので、運動会なんてもうヒーローでした。子供の頃って、足が速いと人気者になるじゃないですか。当時は、サッカーとかよりも、スポーツといえば、やっぱり野球みたいな感じだったので自然と野球を選んでいました。通っていた小学校の野球部は4年生にならないと入部できなくて
陸上 駅伝 箱根駅伝予選会“史上最大の事件”…6年前、どん底の日から名門・中央大はいかに復活したか? 当時の証言「だって高校生に負けたんですよ」
関取5名、計27名の力士を抱える九重部屋。由緒ある同部屋を牽引するのは、元大関・千代大海の九重親方(46歳)だ。歴代1位タイの大関在位65場所という記録を残した「ツッパリ大関」は、いかにして相撲道に邁進することになったのか。ロングインタビュー前編では、九州全域に名を轟かせる不良だった少年時代の思い出や、先代九重親方である第58代横綱・千代の富士との出会いについて話を聞いた。(全3回の1回目/#2、#3へ) ◆◆◆ 運動神経抜群だった幼少期 ――親方は幼少期に柔道の経験があると伺いました。その頃から体は大きかったのでしょうか。 幼稚園の頃は、写真で見るかぎり周りの子より頭ひとつ大きいですね。1年に10キロずつ体重が増えて、5、6歳でもう50キロくらいありました。やんちゃで、朝から晩まで公園や海で遊んでいました。体は大きかったけど足が速くて、かけっこで2位以下になったことがありません。自転車も
2006年、高校3年生で当時の女子1500m日本記録をマークして、「スーパー女子高生」と呼ばれた小林祐梨子さん。現在開催中の世界陸上に出場している田中希実が2020年にその記録を更新するまで約14年間にわたって日本記録を保持していた。 小林さんは2008年の北京五輪、09年のベルリン世界選手権に出場し、2015年に現役引退を表明。引退後に中学2年生から14年間付き合った男性とゴールインし、現在は2人の息子を育てながら、解説者やラジオパーソナリティーとして活躍している。 妻となり、母となった33歳の小林さんに、“若手アスリート”として注目されたゆえの葛藤や、引退後の自身を支えた家族への思いを聞いた。全2回の前編/後編は#2へ
三沢光晴が試合中の事故で帰らぬ人となってから早13年。今年も6月13日の命日を迎えた。 三沢は1990年代にエースとして全日本プロレスに黄金時代をもたらし、2000年にはプロレスリング・ノアを設立。業界を牽引し続けた平成を代表する名レスラーだ。そんな三沢がプロレス界のトップに立つ前、2代目タイガーマスクとして約6年間、覆面レスラーだったことはプロレスファンならよく知るところだろう。 ともすれば“黒歴史”とも捉えられがちな2代目タイガーマスク時代であるが、筆者は三沢光晴が真のトップレスラーになるために、重要な時期だったと考える。そこで今回、あらためて2代目タイガーマスクの誕生とその足跡を振り返ってみたい。 すべての発端は、新日本プロレスの“お家騒動”だった。1983年、佐山サトル扮する初代タイガーマスクの人気もあり空前のプロレスブームを巻き起こしていた新日本だったが、エース兼社長のアントニオ
王者・武藤敬司は必勝パターンに入っていた。シャイニング・ウィザードからエメラルド・フロウジョン、そして足4の字固めへと向かうはずだった。 だが、エメラルド・フロウジョンが崩れたこともあって、武藤はもう一度丸藤を担ぐとシュミット式の背骨折りを繰り出した。武藤は立ち上がると青コーナーを見た。いったん躊躇したようにも見えたが、意を決したようにコーナーに向かってよじ登った。 「まさか」である。武藤は両足でコーナーを蹴った。2018年3月、両ヒザに人工関節を入れる手術をしたときドクターから禁じられ、それ以来、封印していたムーンサルト・プレスを放ったのだ。 禁断のムーンサルト・プレス。 6月6日、さいたまスーパーアリーナ。「CyberFight Festival 2021」のメインイベントはノアのGHCヘビー級選手権だった。 58歳のGHCヘビー級王者 武藤はこの試合に向かう前にこんなことを言っていた
2022年初場所を終え、あるひとりの女性が、相撲部屋のおかみさんを“卒業”した。人気大関だった若嶋津の伴侶である、元実力派アイドル歌手の高田みづえ――日高みづえさんだ。 1977年、『硝子坂』でデビューし、『私はピアノ』『そんなヒロシに騙されて』で2度のレコード大賞金賞を受賞。85年に、当時大関だった同郷の若嶋津と24歳で結婚し、同時に並々ならぬ覚悟で芸能界をきっぱりと引退する。90年2月、千葉県船橋市に松ヶ根部屋(当時)を興した夫に寄り添い、華やかな芸能界と対極にあるかのような相撲界――男だけの修業の世界を裏から支える”おかみさん”となった。 2014年に、夫は一門総帥の“二所ノ関部屋”を継承。このたびの定年退職にあたり、32年の長きにわたり掲げて来た相撲部屋の看板を下ろした。夫と弟子たちを、小柄な体と底抜けの明るさで支えてきた“薩摩おごじょ”だ。「まだ、どうしても私の名前が目立ってしま
『ドカベン』『あぶさん』『野球狂の詩』などの野球漫画で人気を集めた漫画家の水島新司(みずしま・しんじ)さんが10日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。82歳でした。 1972年に連載が始まった『ドカベン』は2018年にシリーズの連載が終了するまで、40年以上にわたって続いた代表作。単行本はシリーズ累計で205巻まで刊行されています。 水島さんが、2年前に「引退」を発表された際に、その多大な功績を検証した記事を特別に再公開します。【初出:NumberWeb2020年12月19日、肩書きなどすべて当時】 日本のスポーツ関連音楽を語るには欠かせない音楽家・古関裕而を描いたNHKの朝ドラ『エール』が、11月27日に最終回を迎えたと思ったら、4日後(12月1日)に野球漫画の巨匠・水島新司先生が「引退」を発表。そのタイミングに驚かされた。 古関裕而と水島新司――。 一見、関係ないようにも見える
かつて全日本プロレスで“完全無欠のエース”と呼ばれたジャンボ鶴田が49歳の若さで亡くなってから21年。今年も全日本の6.26大田区総合体育館大会で、「ジャンボ鶴田メモリアルマッチ」が行われる(当初5月16日に開催予定の大会が緊急事態宣言延長により日程変更)。 旧・大田区体育館は、1989年4月18日に鶴田がスタン・ハンセンを破り、インターナショナル、PWF、UNのヘビー級三冠統一をはたした縁のある会場。来年、創立50周年を迎える全日本では、この大会に「2021 Champions Night~三冠統一の地から50周年への飛翔~」というタイトルをつけており、団体としても鶴田のメモリアルを大事にしていることがうかがえる。 天龍革命は“眠れる怪物”を覚醒させた ジャンボ鶴田は、1972年のミュンヘンオリンピックにグレコローマンレスリング100kg超級日本代表として出場後、旗揚げ間もない全日本プロ
都内の桜が若葉に生えかわった4月13日、瀬古利彦さんの長男である昴さんが34歳の若さでこの世を去った。 25歳の頃、ホジキンリンパ腫という血液のがんの一種を患ってから、およそ9年にわたって彼が駆け抜けたのが“がん”のマラソンだった。難治性の病で、何度も入退院を繰り返す中、彼はこの分野の“トップランナー”を自認する(亡くなる約ひと月前、『がんマラソンのトップランナー 伴走ぶっとび瀬古ファミリー!』(文藝春秋企画出版部)という初めての著作であり、遺作を世に送り出している)。 過酷ながんマラソンにパイオニアの精神で挑んだ昴さんの生き様とはどのようなものだったのか。 瀬古さんが幼少期からの歩みを振り返る。 歯ブラシを捨てるときでも「ありがとう」って 「子どもの頃から昴は優しかったです。困った人がいたらその人のためになりたいとか、そういうことはよく言っていました。たとえば歯ブラシを捨てるときでも、『
近藤真彦がジャニーズ事務所を退所して芸能活動を休止したことに端を発して、様々な芸能ニュースが飛び交った。その多くが「近藤は趣味が高じてモータースポーツに関わり、芸能活動をおろそかにして道楽の世界にのめりこんだ結果、ジャニーズ事務所での居場所を狭めてしまった」というものだった。 1980年代から国内モータースポーツに関わり、近藤のレース活動も見てきた筆者にとってこうした解釈は、モータースポーツについての誤解が根底にあるまま、あまりにも表層的な分析に基づいて書かれているように思えてならない。 芸能界とモータースポーツの「あるある」 近藤真彦以前から、モータースポーツと関わる芸能人は存在した。モータースポーツの派手なイメージは芸能人の背景としてうってつけだったのだろう。確立したプロ制度が存在しないモータースポーツでは、実績を飛び越えて表舞台に関わることが容易だったことも、こうした「特別扱い」が横
東京五輪開幕まで4月14日でちょうど100日となった。本来ならば開催国では機運が最高潮に高まり、自国選手たちの調整ぶりやメダル獲得予想に大きな注目が集まる時期だろう。しかし、「ウィズコロナ」で初めて行われる今回は状況が全く異なる。人々の関心は、「五輪をやれるのか、やれないのか」にある。 世論調査では大半が今夏開催を疑問視 毎日新聞などが3月に行った世論調査では、東京五輪を「予定通り開催すべき」と答えた人はたった9%だった。朝日新聞が4月10、11日、東京五輪・パラリンピック開催について3択で尋ねた世論調査の結果は、「今年の夏に開催する」が28%、「再び延期する」は34%、「中止する」は35%。日本では今なお、大半が今夏の開催を疑問視している。
巨人の桑田真澄氏が「9回完投135球」の持論を唱えたのが話題になった。同氏に取材経験もある記者による記録を含めた「球数」考察を前後編の2回に分けてお送りする(後編はこちら)。 新型コロナ禍の春季キャンプでひときわ注目を集めているのが巨人の桑田真澄一軍投手コーチ補佐だ。2006年に退団して以来15年ぶりの巨人復帰である。 そして就任にあたって桑田コーチは「先発投手は9回完投135球を目指すべき」と持論を唱えたことが、大きな話題になっている。 筆者は2016年、東京大学で行われた「野球科学研究会大会」にパネリストとして招かれ、このとき当時東京大学大学院の研究員だった桑田氏の知遇を得た。その誼で2019年に『球数制限』という本を刊行するにあたって、桑田氏にコメントを寄せていただいた。顔を合わせれば、意見交換をするような間柄である。 「野球は近い将来マイナースポーツに」 2016年の「野球科学研究
近年の甲子園は、膨大な練習と膨大な食事を吸収できた"ガタイ”がいい選手が多い。しかし、もっと無理なく成長することができるとしたら……。 新型コロナウイルスはなかなか収束を見せないが、スポーツ界は徐々に活動が再開され始めた。プロ野球・Jリーグの2大プロスポーツが先駆けとなり、アマチュアスポーツも少しずつ活気を取り戻しつつある。 野球界も「withコロナ」の生活様式を進めている。プロ野球の取材をしていても、変化を如実に感じる場面がある。 プロ野球のパ・リーグを2連覇している西武は、ホームでの同一カード6連戦の最後の日、試合前のシートノックを行わなかった。またパ・リーグの首位・楽天は、中軸を担う3選手、浅村栄斗、ブラッシュ、ロメロの負担を休養日やDH起用で軽減しながら、チームをうまく循環させている。 そして彼らは、試合でハイパフォーマンスを発揮している。チームが好調なのもうなずける。 この流れは
記事を書いたデイリーの小林記者はイチローがメジャー1年目の2001年に初めて野球を担当したという。そんなルーキーに当時27歳のイチローは容赦なかったと振り返る。 《「次どうぞ」、「それ、答えなきゃいけないかな」。記者の質問をことごとくはねつける。無言でスルーされる。そこまで厳しくされる理由が分からなかった。》(デイリー・3月22日) それから3年後に初めて単独インタビュー。イチローが求めていたのは「プロフェッショナル」だったことを知る小林記者。 後年、「(あの頃は)地獄でした」とイチローに語ったという。引退を伝える記事の最後は「イチローには感謝の言葉しかない」。 「僕に鍛えられたんだから……」 同じ紙面には「'94年~'97年までオリックス担当」の記者が、 《記者泣かせの選手だった。》 《想定通りにやりとりが進んだことなんてなかった。》 《「学級新聞じゃないんだから」。時に叱られ、呆れられ
100回大会の決勝を観戦した清原和博氏。1985年夏の決勝で2本塁打を放ち、PL学園を優勝に導いた日と同じ8月21日だった。 金足農業、最後の打球がライトへ上がった。白球をつかんだ大阪桐蔭の選手たちが、グラウンドの真ん中に歓喜の輪をつくる。 その瞬間、清原氏は立ち上がり、何かに引き寄せられるかのように身を乗り出した。かつてのPL学園に代わって最強の称号を手にする大阪代表校、すべてを出し切った秋田の県立校、そして拍手に包まれる甲子園球場、スタンド最上部から、それらを食い入るようにじっと見つめていた。 清原氏はなぜ、甲子園へきたのか。何を求めてきたのか。 甲子園に行けたら何か変われるかも。 「甲子園に行きたいです。100回目の夏、甲子園に行けたら、何か変われるかもしれない。そう思うんです――」 清原氏から、最初にその言葉を聞いたのは去年の終わり頃だったと記憶している。 覚醒剤取締法違反で逮捕さ
今回のスポーツ新聞時評のテーマは、11月14日の火曜日からすべてがはじまったと言っていい。 『ビール瓶で殴打 日馬 暴行疑惑 貴ノ岩頭蓋骨骨折』(スポーツニッポン) この衝撃的な1面がスポニチで報道されて以降、まだ報道合戦が続いている。 当初は「ビール瓶で貴ノ岩を殴った」と伝えられたが、そのあと「ビール瓶は使っていない」という情報が出てきた。一体何が事実なのかわからない面妖さ。それは一般社会からはなかなか見えない相撲界そのもののようにも思える。 「あちらの世界」(相撲界)と「こちらの世界」(一般世間)。この橋渡しをしている1つがスポーツ新聞だ。ただ、同じテーマでも社説の論調が各紙違うようにスポーツ紙でもスタンスは異なる。それが新聞の読みどころ。 「日馬富士引退」という大きな動きがあった翌日(11月30日)。各紙の「記者の目」を見てみよう。相撲担当が見解を述べる、いわば社説のようなものである
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